月明りの里(月影の道を歩く)
晩年や月満ち明るし心澄む
月ひそか我が部屋のぞき消えにけり
誰知るや人は知らじも月は知る
紗(うすぎぬ)の雲のかかりて秋の星
月影の明るし里や虫の音の澄みてひびきつ夜のふけゆきぬ
いつしかに忘らる人や常なき世彼岸の入りと夜虫の鳴く
月読みの光に来ませ あしひきの山きへなりて遠からなくに(湯原王・万葉集673
夕闇はみちたづたづし 月待ちて行ませ吾が背子その間にも見む
(大宅女・万葉集712)
月影に明るい道だった、でも自転車のライトをつけると月明りは消えた、電動自転車でそのライトが明るいからだ
だから自然というのは人工的なもの電気の光でも自然状態を消すのである、月光で町全体で明るいから見通しが良かった
つまり月明りでも十分に歩ける、電気がない時、月明りの中を歩くのは幻想的である、この辺はまだいいが都会だとあまりにも電気で明るすぎるのである
自然が消失すると詩も消失するのである
だから夕闇は道たづたづしというのはどういうことなのか?
夕闇の方が暗く月が照らしたとき明るいとなる
これも自然の中で生活していればわかるが今はわからない
夕闇の方が普通はまだ明るいと見ているからだ
いづれにしろ月の光のなかでも十分に通うことはできたのである
それは記憶に残る思い出となる
あまりに今のように電気の光に満ちていると何かそれによってかえって心の印象が散らされるともなるからだ
電気を否定はできないが月明りというのも消失すると何か失うことなのである
吉野に遊ぶ(32) 藤原不比等
夏身 夏色古り
秋津 秋気新たなり
昔 汾后に同じく
今 吉賓を見る
霊仙 鶴に駕して去り
星客 査に乗りて逡る
清性 流水をくみ
素心 静仁を開く
夏身(※)の地は夏景色も深まり
秋津の辺りは秋の気配が立っている
昔、堯皇帝が汾の地に籠もられたように
今、そのような地によき人を迎えている
鶴に乗ってこの地から去った人や
筏に乗って星に行った人も帰ってくるだろう
清を好む性格は清らかな水を汲み
まじり気のない心性は山の情趣に浸っている
※現在の菜摘の地
・『懐風藻』講談社学術文庫
現代語訳は、同書にある江口孝夫のもの
菜摘は山蔭にあり清流が流れる場所にある、そこに行ったことがあった
菜摘は夏身としているからこの字とは関係ないのか?
もともとは夏身だったとなる
山高み白木綿花に落ちたぎつ夏身の川門見れど飽かぬかも
式部大倭(しきぶのやまと)が菜摘(なつみ)の川の流れを詠んだ歌です。
この漢詩のような気分になった、むしろ晩年になると心が澄むということがある、若い時はやはり欲がむきだしになるからなかなかこうした心境にはなれない、いろいろなものに惑わされすぎるのである、自然に没入できないのである
おそらく今日は満月になるだろう、わずかに時計を見たら月の満ち欠けを示すものだが完全な満月ではない、明日は完全な満月になる
でも今日は雲がでてきた
そっと月が我が部屋をのぞきそっと消えてゆく、月は自分を知っているともなる
でも今日は暑かった、気候の変動が何かずっと大きい、だから秋なのかともなっていた、夕べは秋らしい、それは月見にふさわしいものだった
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