責任が厳しく問われた原発事故
(責任の重さを自覚しないで行動する危険−戦争も同じだった)
戦争始めるときなぜ戦争したのか?
そもそもその原因が未だにはっきりしない
戦争するくらいだから明確な理由があってもいいし説明できるはずである
結局右の見方としては経済封鎖とかで追い詰められたからだとなる
もう戦争するしか道がなかったとそれはアメリカが日本を追い込んだからだ
それが戦争のり理由だったとなるのか?
ではまず戦争を始めるとき誰も3百万人も死ぬとは予想していない
むしろ戦争がはじまったとき日本は勝つと信じていたのである
実際に初戦はシンガポールを落としたり勝っていたしまた日本は必ずしも戦力でも劣っていなかったとされる
その後アメリカが参戦して敗北した
戦争でも予想しないことが起きて敗北した
その時でも3百万人も死ぬということは誰も予想していないのである
最初からそうした犠牲があり覚悟あって戦争したならいいが日本は神国で勝つと国民もおもいこんでいた、思い込まされていたからそんなこと思っていなかったのである
だから戦争をはじめるときもしこれだけの犠牲があるとしたら覚悟したら戦争がはじめられたのか?
「あなたがたの息子は戦争で死にます、犠牲は大きくなります」
「息子が死ぬのが戦争か嫌だな、戦争はどんなことしてもやめるべきだ」
「俺たちが戦争にかりだされて死ぬのか、嫌だ嫌だ、もっと生きたい、20代で死にたくない、恋人もいるし結婚もしたい、子供だっている、死ぬのはいやだいやだ
戦争なってしたくない、国のためとはいい死にたくない死にたくない・・・」
これはあくまでも結果論になるのが戦争を始めるとき3百万人が死ぬということを予想して覚悟して始めてはいない、みんな戦争は勝つとしてはじめたのである
それでいくら特攻隊とか短歌を残しているけどそれを称賛する人がいるけどそこにはなんで死ななければならないのかその苦悶がにじみでている
いくら国のためだ天皇のためだといってもそこに死にたくない、20代では死にたくないという苦悶がにじみでているのだ
結果論から責任を問うことになったが必ず行動の結果として人間は責任を課せられる
責任から逃れられないのである、もしその責任を覚悟して事をはじめるならいい
でも予想外のことが起こり悲惨な結果になった、そして3百万人が死んだ予想外の結果に責任を問われる、それは重い責任をとらされることを覚悟していないからである
原発事故でも同じだったのである
「事故は絶対に起こらない」
「本当ですか」
「百パーセント保証する」
「では事故が起きたらどうするのですか?」
「確率として百万分の一しか事故は起きない」
「それを保証できるのか、もし事故が起きたら責任はどうするのですか
あなたは腹を切れますか」
「起きないから考える必要はない」
数学者が百万分の一の確率でしか事故は起きないと計算していた、でもそうした発言は事故前には多かったのである、それは戦争は絶対に負けない,日本は神国だから絶対に負けないというのと同じだったのである、負けたら事故が起きたらどうなるかなど考えないのである
結果論にはなるが戦争に負けた時どうなるのか?
また原発事故が起きたらどうなるのか?
そのことを考えて行動はしていない、原発の場合は「安全神話」が作られていたから事故が起きたことを想定しないから何の準備もなかった
放射能を測定するスピーディとか機械があってどこに放射性物質が流れるのか知ることができたがそれさえ自治体に知らされなかった
そして浪江では津島とか一番放射能が高い所に山の方に逃げたのである
そしてアメリカにまず連絡して日本人には連絡されなかったのである
つまり事故は絶対に起きないとしてはじめたのだから事故が起きたらどうなるのかは考えていなかったのである
そして事故が起きたことで今度は誰も責任をとらないのである
責任を誰もとらないとしても確実に責任をとらされるのが人間社会である
戦争では三百万人死に原発事故では故郷に住めなくなった
原発事故では一人も死ななかったからたいしたことなかったとか言う人もいる
でも故郷に住めないということは最大の被害だったのである
それは歴史の消失でもありそこに生きるもののアイディンティティでの剥奪でもあったからだ、それは精神的に相当な深刻な被害だったのである
ただ地元でもこうなる結果を予想していないからこそ地元の人も責任も問われた
例えば漁業組合で盛んに汚染水が海に流れて魚がとれないということを主張して補償金をもらうし事故前ももらっていた
ではもし原発を作る前にもし事故が起きたことを想定していたらどうなるのか?
「事故が起きたら魚は放射性物質に汚染されてとれなくなりますよ」
「そんなことはならないと事故は起きない」
「もし起きたら魚はとれなくなります、それでもいいのですか?」
そのことを真剣に考えた漁業組合の人はいない、むしろ補償金だけに目をくらんでいたし地元では金のことしか考えていなかった、個々人でも金をもらえればいいとしか考えないのである
リスクのことを考えないのである。株でもは投資では必ずリスクがある
もうこのリスクだけは逃れられない,国際情勢とかも関係しているから自分も株を知らないで投資して失敗した、でも銀行でも一応リスクのことは言っていたからまた違っていた戦争と原発では本当は始める前から相当なリスクを考えて覚悟してするべきものだった
それは株とも違う命にかかわる危険なことははじめる前から予想できたからである
戦争は人を殺すことだからそもそも危険である
原発は専門家なら放射能がいかに危険なものか知っていた、その覚悟があって原発でも作るならいいがなかった
でも失敗すれば大きな責任が課せられてその責任から逃れられない、確実に誰かが責任をとらされるのである
事業するのはいいとしてもその結果の責任が問われる、借金にりく首が回らなくなり自殺する人も普通にいる、そして親戚でもなんでも周りに多大な迷惑をかけるのである
そうしたら俺は優秀だから事業して優秀なことを示してやるとかで事業を始められたら周りの人は迷惑になるのだ、その人の一存で事業は始められる、でも事業は一人ではできない、周りの賛同が必要になる,でもそんなことを考えないで事業をはじめて失敗したら借金になり周りに迷惑をかけるのである
結果論にしろ誰も重い責任を自覚して事業を戦争でも原発ではじめていない
だから戦争と原発では実際は責任をとった人がいないのである
むしろ戦争はアメリカにしかけられたものであり大義がある戦争だったという論理になりそうなれば責任をとることはないのである
ただ戦争は賛美されるだけである、そうなれば3百万人は英霊となりほめたたえられるだけだとなる、要するに戦争は成功したのであり責任は誰にもないとなるのである
だから戦争という時そこに日本の大義があるとしたらその大義を貫くことが求められる
でも実際は戦後はただただアメリカに服従するだけで戦前にあったもの戦争中にあったものを全否定して70年が過ぎたのである
日本人は責任をとらない、ということは何かするにも始めるにも責任をとらないからはじめられるとなる、責任を厳しく問われる、失敗したら切腹させられるとなったら簡単に事は始められない、でも責任はとらないとなれば安易にはじめる
その結果が重大なものとして被害があってもそうなるのである
責任は確実ぱ誰かがとらされるのである、だから戦争では三百万人が死に原発事故では故郷に住めなくなったのである
プルトニウムは二万年消えないとかなったのである
とりかえしのつかないことになったのである。
だから今なら原発は事故になったらこういうことが起きる、責任をとらされると福島の原原発でわかったのだからこれから原発を作ることは運営することはそれだけのリスクがあるから今回の福島のように手厚い補償はしないと言う人がいるのも一理ある
事故が起きたらどうなるのか福島が示したからである
だからその覚悟をしてやれとなるからだ、事故が起きても今度は補償金は出ませんよ
その覚悟で原発を作ってくださいとなるからだ
故郷に住めなくなることも証明したからである
それでも覚悟してやるとしても原発は事故が起きたら広範囲だから地元だけではないからまた地元のエゴだけで推進してもらうのもこまる
戦争だってそうである,あらゆる人を巻き込むからである
事業するということもそうでありその事業が俺は優秀だから優秀さを示してやるとかで事業を起こされてはみんな迷惑になるのである
でも事業者は失敗すると自殺したりするから責任をとらされるのである
原発事故では一人も責任を感じていないとってもいないのである
科学者から政治家から官僚からマスコミでも誰も責任をとっていない、普通たいしたことがないようでも会社の不祥事とかで自殺したりしているがしていない
そもそもが責任を感じてすらいないからそうなる
ただ利益をえることしか考えていなかったのである
別にリスクがあっても事業することは全部悪いことではない、でもそのリスクの責任はとらされるのだからそれを覚悟してやるならいいがそうではなかったのである
結果としてもうとりかえしのつかないことになり責任を地元ではとらされたとなるのだ