2018年08月27日

価値は常に変化している (変化に対応できないものは生き残れない)


価値は常に変化している

(変化に対応できないものは生き残れない)

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野口悠紀雄−ダイヤモンド9月号

価値というのは常に変化している、そもそもあらゆるもので一定した価値はない
常に価値は変動しているのが人間社会である。
江戸時代には米が一番価値があった、すべての価値は米で計られていた
藩の力も何万石とた給料も米で計られていた、米が貨幣であり価値の基準だった
それが江戸時代だったのである

次に明治になると価値基準が大幅に変わった、確かに米の価値は依然として高いが
様々なものが価値となる時代になった、農業国から工業国に変わると価値も変わってくる時代によっても価値も変わる、戦争中は国のために死ぬことが最大の価値だった
国家に殉じることが最大の価値だった、江戸時代なら藩に殉じることが価値となっていたと同じである

こうして常に価値は変わる、その価値に変わりようについていけなくなる、江戸時代から明治になって生きた人たちがそうだった、侍という身分がなくなったとき新しい時代でどう生きるのか模索された、その時はまだ農業時代がつづいていたから北海道に開墾に入るとかなった、この辺でも八沢浦は明治に田んぼにした開拓された場所である
そこが津波の被害にあった

時代によって大きく価値が変わる、米の価値は極端に低くなった、それより顰蹙をかったが八沢浦は前のように入江になっていたら美しいだろうと津波の前から私はイメージしていたのである。それが現実になったときほど驚いたことはない
浦となり波が光を受けてきらきらと寄せて来たのである
それは奇跡のように思えたのである。でもそこには家が浮いていたのである。
その後に泥となりその中から幼児の死体を探していた人がいたのである。
ただそういうことをその時は思わなかった、40軒くらいあった海岸沿いの家もみんななくなったのである
でもまたその後に広い沼ができてこれは昔の自然状態にもどったとして感嘆していたのである

つまり今は私は特殊にしても米という価値を高く見ていないのである。
米などいくらでもとれるから減反政策になったとかなる
米は売れない、パンを食べるようになって売れないとなった
ここでも価値の変化が起きる、つまり自分が特殊であれ価値観が変わったからそうなる
「八沢浦が元の入江に戻った」というの写真に出したときそれを見る人は多かった
でも地元にしてみればそこで死んだのだからなんだとなってしかられたの当然だとなる

ただ農業の価値でも変わる、農業をただ食べるものとして食料として見る
でも農業にはそれだけではない、自然景観の保存とか水の利用とかで自然を維持するということがある、ただそれは都会の人だとただ食料として金を払うだけになる
でも地元からみるとそういう自然を維持する、自然の環境の保護ということもある
景観は人間は作ってきたものがありそれを損なわれることはそうして人間が作ってきた営みの破壊になるからだ
津波はそうして人間が作った実りの田んぼとか松原の景色を根こそぎ破壊した
一方で八沢浦のように元の美しい入江とか湿地帯化して沼ができたとかなる

農業でもこの辺は原発事故以後まだ荒地が多い、避難区域だったところは草に埋もれている、すると米とか野菜でも食料として生産するのではなく景観の回復として復興する
花畑とかにするとそこは景観が回復する、すると米や野菜がとれなくてもそこに住みたいという人がでてくるかもしれない、外からも花を見にやってくるとなり復興するともなる新しい場所としての価値を作ることになる
ただそういう考えは文字通りお花畑だと古い人には言われるだろう

ともかく価値は一つではない、多様なのである。そして常に変わるのである
時と場所によっても変わる、だからアフリカで黄金と塩が等価で交換されたとなる
塩の方が生きることにとって大事な場合があるからだ
とにかく人間の社会は常に変化する、そしてその価値も変わる、その変わり方は激しいとついていけなくなる、現代社会はグロ−バルになっているときそれを批判してもその影響を受けるからますます価値は変動しやすいのである。

それは昔からあった、「三日見ぬ間の桜かな」とか人間も信じられないように変わってしまう、老人が不利なのはこうして激変する社会についていけなくなる
無常というのは常ないことであり同じではないことなのである
それは社会でもそうだし人間個人でも変化する、たちまち老人となり病気になり死んでしまうとなる
人間はそうした変化の前に茫然とする、自然災害でもそうである
この辺でも村自体がいくつも消滅した、村自体がなくなるということなどイメージもできなかった、それが現実だということが信じられないとなる
その激変についていけない、だからそれが夢のようで現実だと最初は思えなかったのである。それほど激変になったからである

最近ITの進歩でサラリーマンがいらなくなるというのも何なのだろうとなる
それも技術の進歩で価値の変化が起きてくるからそうなる
そもそもIT社会になると様々なものの価値の変化が起きる、それに日本は紙の紙幣にこだわるから効率的ではないとして遅れた国だとされる
中国や東南アジアでもスマホ決済になっているからだ、日本は高度成長時代は先進国だったが今や中国でも韓国でも東南アジアでも追いつかれる、中国の都市部の物価は日本より高くなっているから日本に旅行にくる
10数年前は10倍の差があった、それがこんなに変わることの驚きである

「強いもの、賢いもの、大きいものだけが生き残るわけではない、変化に対応するものが生き残る」ダーウィン

まさに最近この引用が多いのはそのためだろう、現代はそれだけ変化が激しい社会だからである。
何か今やインタ−ネット上で文章を書くと引用が多くなる
それも現代のインタ−ネット社会の変化である
雑誌でも読むだけ終わっていたが今は引用して利用する
ただ雑誌とか本は引用するのが効率的でないのが違っている
でも引用は別に著作権違反にならない、そのルールを守ればならないのである。

タグ:価値の変化
posted by 老鶯 at 10:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題
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