2018年08月23日

マスメデアは感情的にさせる客観性がないバッシングメデア (対抗メデアになっている武田邦彦氏の発言)


マスメデアは感情的にさせる客観性がないバッシングメデア

(対抗メデアになっている武田邦彦氏の発言)

武田邦彦氏が盛んに日本人は感傷的感情的になりすぎる、客観的冷静に見て判断しない
合理的ではないというとき日本人にはもともとそうした科学的合理的精神が育たなかったとなる
科学的合理的精神がなぜヨ−ロッパに育だったのか?
それは一神教でありキリスト教から育まれたという見方がある
なぜ宗教から合理的精神や科学的精神が育つのか?
それは一神教というときあらゆるものが神となるアニミズムから解放されるからである
偶像崇拝から解放されるから科学的合理的精神が育つとみる

日本人は感情的だというとき義理人情の世界だから情に重きを置くからそうなる
日本人には法の精神とは育ちにくいだろう。法律は情を極力入れな、感情移入しないところに成り立つからである
感情的ではなく冷静な客観的判断をすることに重点を置くからだ
日本にはこういう精神が欠けているのは確かである

明治になるとそうしたヨ−ロッパの文明が入ってきたとき思想でも何でも日本人は同化しようとしたがなかなかできなかった
例えばこの合理的客観的精神は文学にも影響したのである
正岡子規の俳句の写生論がそうである
「鶏頭の十四五本ありぬべし」の俳句がその代表だったのである。
こういう俳句はありえなかったからである、それはヨ−ロッパの文化が入ってきたとき写実主義が絵でも現されているそれを取り入れたからそうなった
極力悲しいとか淋しいとかうれしいときいう感情は入れない、なぜならそうすると俳句は短いから表現できないからである
短歌だとそうした淋しいとか悲しいとうれしいとか悔しいとかの感情が入れやすいのである、俳句は感情的なものを入れるとも短いから成り立たなくなるからだ

客観性は科学や法の精神である、主観とか感情移入すると客観的判断はできなくなる
だから親族の発言は認めないとなる、どうしてもそこに感情が入るから公正な判断ができなくなるからだ
法で裁くというとき何かの事件でも殺人事件でも客観的な判断になるもの証拠が必要になる、すると科学的にその証拠を集めてそれが有力な判断基準になる
推理小説ではドラマではそうなっている、つまり人間の争いは複雑であり感情的になると誤るし利害とかからむとまた判断を誤る
それで客観的証拠として科学で追求するようになったのである。
私もそのことで失敗した、親戚でも双方の言い分を聞かなくて一方的に一人の言い分だけを聞いていたからである。それで判断を誤ったのである。
それは利害も関係していてそうなった

人間はそもそも客観的に冷静に判断することがむずかしいのである

objectとなると【哲学】 対象,客観,客体 (⇔subject)の意味になる

objectには物体という意味があり物体から見れば客観的になる
人間だと感情移入するから客観的になりにくいのである
科学者はobjectの追求しているから客観性を維持できる
文系は感情的になりやすい傾向がある
それで武田邦彦氏の言うことは科学者であり文系にも詳しいから参考になる
考えさせられるものとなるからだ

マスメデアは文系なのである、理系の研究者などいない、だからどうして科学的なことについて追求できるのかとなる、何の専門性もない素人である、
それでもマスメデアはただ大勢の人が見るということで力をもっていたのである
大勢の人に訴えるにはわかりふすいことである。
それは感情に訴えることなのである。

ともかくニュースでも犯罪があれば感情を刺激する報道をする、何かをハッシングの対象にする、裁判官のようになっている
それはマスコミはマスメデアは単なるメデアではない、媒体ではない
自分たちの思う通りにしたいという明確な意志があって報道している
だからそれに反するものは発言させない、正しくても発言させないし取り上げないのである。またマスコミのマスコミ会社の意にかなわないものは排除する、報道もしないのである。

そしてマスコミはマスメデアは洗脳機関なのである。何か客観的に正しいものを追求していないのである。
この辺で起きたことでもそうである。補償金問題でもめていたとき一方的に原発避難民側に立って番組を作っていた
それでもし原発避難民を批判したらNHKでマスコミでそんなことを言わないとなりハッシングされる、なんて冷たい奴なのだとなり自分も批判されたのである
それはNHKにマスコミにお墨付きをもらったからそうなったともなる

でも現実問題として飯館村でも補償金で二分したけど牛を飼っている農家が9億円もらったというときそれは報道されないし真実かどうかわからない
でも大熊では5億円もらったというとき嘘ではないと思う
なぜなら事業している人とか土地をもっているとか酪農とか肉牛を飼っている人は多額の補償金を出たことは確かだからである。
それが現実であるが報道はされないから誤った判断になる
飯館村の村長が寄付金を募っていた、9億円ももらった人がもしいたらなぜその人たちは飯館村の復興に金を使わないのかとなるからだ 

でもそういうことは隠されるから飯館村ではかわいそうだなとなる
私も飯館村には思い入れがあるから批判はしたくない、飯館村は双葉とか大熊とは違う
原発とは関係ない所に位置していたからである
ただ金の問題になったときそんなに補償金をもらう人がいてなぜその人たちは村の復興に使わないのか?ただもう村を出てゆくことが優先されるだけだとなってしまった
これも外部の人はそういうことが報道されない隠されるから判断を誤る
ただ補償金では利害からんでいるから当事者だと客観的になりにくい
ここは30キロからはずれて補償金ももらったとしても少なかったから私は発言できたともなる

いづれにしろマスメデアとかマスコミの時代は終わったと思う、新聞とかもやがてなくなるかもしれない、すでに若い世代は新聞もテレビも見ないからである。
そしてでは判断基準をになるのは何になるのか?
それを象徴していたのが武田邦彦氏の科学者としての発言である
反対することがあってもインタ−ネットでは個々人の発言でありマスコミの会社としての発言ではない、すると何であれ考えさせる
つまり個々人だから対話的になるのである。この人はこんなことを言っている、そういうこともあるの,そういう考えもあるのとなり自らも考えるようになる

でもマスコミは煽情的であり何かをあおりバッシングさせるメデアである
まず阿部首相は気に食わない、自民党は気に食わない、だからやめさせるべきだ
そこから出発して会社として朝日新聞社とか毎日新聞社の意見として編集して放送しているのである。その会社の意向に反する者は発言できないのである。
それはカルト宗教団体ともにているし感情をあおるナチス的手法でもある
ゲッベルスになっているのがマスコミである
だからこそ朝日新聞は戦争を一番あおったのである

インタ−ネットにも問題があるが個々のメデアだから対話的であり考えさせるとはなる
大衆を対象にもしていないからである。
インタ−ネットでも大衆を対象にするとき感情をあおるようになる
でもそういうメデアではないからてりにくい、マスメデアはマスコミはあくまでも大衆をマスを相手にしている、だから考えさせないで感情的にあおる
まず犯罪の報道でも裁判官になっている、何かの報道でも裁判官になる
だからそういう資格があるのかという疑問がある
科学的に専門知識をもっている経歴の人がいないということは言えるからだ
武田邦彦氏の経歴はやはり他者の追随できなものである
ただすべてを容認はできないにしても科学については詳しいからそこから客観的判断ができるとてり考えさせるとなる

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