2018年08月15日

失われる故郷や家の記憶 (精神的なもの目に見えない価値は受け継がれにくい)


 失われる故郷や家の記憶

(精神的なもの目に見えない価値は受け継がれにくい)

双葉町には特攻隊を訓練した飛行場があった、それは原発のあった地域でありそれを記録するもの伝えるものがいなくなった、地域はばらばらになり崩壊した
記録でも記憶でも伝えるものがいなくなれば伝えられない
記録や記憶はやはり共同体がないと伝えられないということがある
なぜならそうした歴史の記録とか記憶はその共同体にとって重要なものとなっていたからである
津波の記録がこの辺で二行しか記されていなかった、700人溺死としか記されていないでも一応記されているのだからそれが嘘とは思えないから津波があったとみる

不思議なのは最近リバースモゲージとか家を担保に銀行で金を貸すという
そこで家の価値は耐震性があるのが第一であり後は省エネになっているとかである
家の価値は日本では10年過ぎると半分に下落するという
それは家というのを土地とか家という建物しか見ていないからである
建物は価値がなく土地だけだとなる、それで地方では家に価値がないから銀行ではそういうことはしない、それを価値をあるものと見ないからである

この辺で起きたことはこうした故郷とか家で営まれたものの価値は賠償されない
なぜなのか?それは金で計ることができない価値だったからである
だから賠償の対象になるのは家でもその建築物であり土地でありその他は賠償対象にはならない、それは土地や家のように具体的に見えるものでないからである
家というのはただの箱ではない、そこで家族が長い間暮らしたものとてし家がある
するとその家に精神的価値が付与されているのである
日本では家というというときただのハウスではない、家というとき代々の家という意味もあり侍だったら御家中となっていた、お家大事になっていた
それは建物だけを言っていたのではない

その家で暮らした人なら家族の思い出としての家がある
外からの人だったら家はた快適に安全に暮らすものとしてしか見ない
そこでどういう営みが行われていたか考慮しない
そこは単なる一区画の土地であり家という建築物でしかないのである
ただその家で自殺者が出たとかなると縁起が悪いとかなり売れない
それはやはり家には何か建物だけではない、何かそうした住んだ人の何かがまとわりついている、だからただそれを家という箱のようにみて古い家を買ったりして住むと災いを受けるとか不安になる、それは人間には物は物ではない、ものには心がつくものだからである

故郷とか市町村でもその地域地域によってかもしだす雰囲気がある
その雰囲気はやはりその土地土地で長い歴史のなかで作られた来たものである。
だから避難区域になった所で人が住まなくなった、廃墟の街となりゴーストタウンになるでも依然としてここに住んだ人たちが幽霊となっても住み続けているという感じになる
先祖が故郷には代々生きて葬られているからである。
それは墓だけではない、その土地全体になお生きているという感じになる

家族がみな死んだが自分の家にしてもそうである
何か長く一緒に家族が生活したということでその記憶がこの家からにじみでてくる
なおまだ家族がいるような気分になるのが家なのである
ただ他人から見れば外部から見ればそうしたものは何の価値もないのである。
ただ耐震性とか安全性とか利便性とか値段しか関係ないのである。
そういう物の怪(もののけ)とか何か精神的なものは金で計れない、だから賠償の対象にならないのである。
でも本当はそういうものに価値がありそれが失われたことが大損失だと気づく人もいるだろう、それはいくら賠償金もらっても取り戻せないものだからである。

津波で流された江戸時代からあった右田の松原は貴重だった
それは単なる木ではなく長い間故郷の原風景として心と一体化したものだった
だからそれがなくなったことは精神的な面でも喪失したものが大きいとなる
それはもう二度とありえないものとなりただ記憶としてしか残っていないのである
そして次の世代の人は何もわからない、ただ風力発電の風車が回っていることが風景となったからである
江戸時代にあったものでもそうである、江戸に縦横に水路があり舟が行き来していた
その中で生きていた人たちがいてその風景と一体となっていた
それは高層ビルの谷間になりもう回復できない、その時代にあったものは永遠に回復できないのである、その時代に戻ることは絶対にできないのである。
ただ残されたもので想像の世界でしかありえない、でもその想像する時その当時のものとはまるで違ったものとして想像しているかもしれないのである。

こうしたことでこの辺では人が住まない区域ができて相当に金で計れないものを失った
いくら賠償金をもらってもそれをとりもどせないのである
人生でも決してもう一回やり直すことはできない、過去にもどることもできないし青春にももどれないのである。
人間は金で計れるもので生きている、毎日の価値を計るのは金である
食料でもいくらで買って得した損したとかで暮らしている
でも金で計れないものが人間関係でもその営みのなかに生まれている
ただそれが金で計れないから意識しないのである
空気が最も大事なものでも意識しないと同じである
ただ故郷を失うとか家族が死んで残ったものは記憶でありそれが貴重なものだとしても
他人には外部の人には価値として計れない、見ることはできない

鉄道を利用しないのに鉄道を廃止させたくないというとき鉄道には長い歴史がありそこに人間の営みがつづけられてきた、出会いがあり別れがありそこに様々な人間の営みがつづけられてきた、何かだから駅でも鉄道でもレールにさえ愛着を感じる
何か哀愁を感じるのが鉄道なのである。それはただ物を人間を運ぶというたげではない
人間の営みが演じられたものがそこに付着しているからそうなる
だから鉄道がなくなると淋しいとなるのはただ鉄道という物や人を運ぶものがなくなるのではない、そこに営まれた人間の汗と涙でも付着しているからである
そこに何か哀愁が生まれる、ただ人が乗らないとかもう鉄道は不便だからいらないとなるが一旦廃止にしようとすると反対があるのはそれは鉄道は長い歴史の中で単に物を運ぶとか人を運ぶものではない、人間の営みとともにそこに人間の情がのりうつっているからである。高速には車には何かそうしこたものを感じないのである

人間は毎日金のやりとりで金で価値を計って生活している
でも人間の営みにはそれだけではないものが必ずある
それは金で計れないものでありそれこそ貴重なものだったと意識させられる時がくる
それは人生の最後に来るかもしれない、本当の価値は金にはなかったな、ともに苦労して喜び、悲しみ生きたことだったなとかなり涙を流す
青春時代の歌を歌って涙を流している人がいた、それはその時代が永遠に戻らないからである。失わたものは永遠にもどらない、それは時代でもそうである
過ぎ去った時代は永遠にもどらない、そこは想像の世界であり決してその時代に生きた実感ではありえないのである。
その時代に作った俳句でもその時代でしか作れないのはそういう時代が過ぎ去ったからである、それを体験することは不可能だからである、ただ想像する世界としてしか過去はありえないからである。右田の松原は何の痕跡もなくなったようにそれはただ記憶としてあるだけである、次の時代の人は全く想像すらできない、なぜならその片鱗すらも何も残っていないからである

posted by 老鶯 at 21:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連
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