2018年08月11日

原発を東京に作れというのは正論だった (人は住んでいる場所に一番関心をもつ)


原発を東京に作れというのは正論だった

(人は住んでいる場所に一番関心をもつ)

人間は住んでいる場所に一番関心がある
当然住んでいる場所だといろいろ直接影響するからである
原発でも浪江だと請戸港から原発の煙突が見えるのだから関心をもつ
角のことはからないにしてもそれだけた近くにあれば関心をもつ
もし事故が起きたならどうなるのかなど想像する人もいる
でも離れていると関心をもたないのである

なぜフクシマに原発を東電で建てたのか?
それは300キロ離れていれば東京は安全だと思ったし
とても東京では反対があるから建てられないとなり福島に建てた
すると東京に住んでいる人たちも安全だとなり容認した
そこが間違っていたのである
東京の人たちも離れているからいいや,こっちには関係ないだろうとなる
東京の人たちも無関心になっていたのである。
でも東京に原発が作られたら恐怖で四六時中監視する人もでてくる
東京には科学者とか技術者がいるからさらにうるさくなる
常に原発はそうした人たちの監視にさらされるから安全を完全にしないと運営できなくなっていた

ところが福島とか離れると東京の人たちも関心が薄れる、安全だとなり容認するようになっていた、そこに落とし穴があった
人間は住んでいる場所だとささいなことでも気になる、この辺では土を削りとられた所が多い、それを毎日見ていると景観的に嫌だなとなってしまう
それは毎日見ているからである、見ざるをえないからである
一時的にいるなら通り過ぎるなら嫌でも離れれば見ないからいいのである

人間は住んでいる場所だったら身近だから自分のことのように考える
でも離れてしまうと他人事になってしまうのである
原発事故の避難区域でも故郷から離れて暮らしているとやがて住んでいた故郷のことでも無関心になってしまう、そこが何になろうと関係ないとなってしまう
土地をもっているけど放射性廃棄物になっても金にならからいいやとかなる
もし住んでいたらそんな危険なものは置くなとなるが離れていると関心がなくなるのである

だから人が住まないとどうなるのか?
その住む場所に誰も関心がなくなる、別に放射性廃棄物でもあってもいいやとなる
金になるからいい、どうせそこに住んでいないのだからいいやとなってしまうのである
住んでいれば住みやすいように自ずと努力するが住んでいないなら関心もなくなる
そこはやがて放置され原野化して政府の土地となり放射性廃棄物場になりやすい、現実住んでいないのだから反対する人もいないからである
住んでいないことは実際は権利を失っているのだ、だから土地でも空き家でもそうして利用されていない土地でも家でも所有の権利を失うのが自然なのである。

それにしてもすでに小高に東北電力の原発が建てられる工事まではじまる予定だった
そこに建って事故が起きたら南相馬市とか相馬市とかには住めなくなっていたのである。でもそのことを知っている人も少なかったのが怖い、何か報道でも取り上げないとそうなる、原発を建てる土地を買い知事の許可があれば原発を建てられると法律ではなる
それが異常なことだったのである。
事故になれば南相馬市でも相馬市でも住めなくなる
その時は南相馬市は合併していない、だから小高だけで決められることにもなっていたのも怖い、原発というのはこのようにあまりも建てるにも広域的な議論もなにもなかったのである。ただ地元の大工さんは景気良くなるよとしか言わない
地元では金のことしか関心がなかったのである

人が住まないとそこは無関心地帯となる、それが自然の原始の状態にもどるわけでなはい政府のものになり放射性廃棄物となったり何か他のよからぬものに使用されたりする
そこには誰も住んでいないのだから反対する人もいないからである
そしてそこに住んでいなければもともと住んでいる人も無関心になる
ただ何でもいいから金になればいいとなり土地を売ることになる

例えば無人駅でもそこを管理する人がいない、すると勝手にされるということがある
確かに監視カメラとかついていたり隣の駅で見ていたり連絡はできるが無人駅ということはその駅を管理する人がいないのである。
そうなると許可なしに何かをする人がでてくる
ボランティアで善意でもJRではどうにもならないともなる
いくら自動化しても全部責任を持てない、ロボットは責任を持たないからである。
無人化することはどうしても勝手にされるということをさけられないのである。

いづれにしろ東京に原発を建てろというのは正論だった
それができないなら原発は建てるなともなっていた
でもその正論は正論にもならない、何か風変わりなSF作家が提案していように見られていた、そういう本も出ていたが隅に追いやられて冗談かとまでなっていたのである。
それほど「安全神話」は強固に作られていたのである。
それは核が庶民にはわからないこともありそれ故にさらに強固な安全神話が作られた
日本の技術は優秀なのだといううぬぼれもあった、そもそも核と原発の技術はアメリカが基でありアメリカに指導されて作ったから日本の技術力で作られていなかった

そしてアメリカでは古い型のマーク1の原子炉を商売として売りつけていたのである。
これは明治維新の時古い武器を売りつけられたのと同じだったのである。
つまり自国の技術力でやれればいいのだがアメリカはアメリカで日本は遠いから無関心になり危険なものでも自分に及ばないから古い型の原子炉をうりつけたのである。
自国だったら身に危険を及ぶからそういうことはできないのである
国は国で離れていると無関心になり危険がないから親身にならない
ただ金儲けとして危険なものでも売りつけるとなるのである
ここにグロ−バル化経済の問題がある、自国だとうるさいが外国だと安全は食品でもなおざりにされる、どうせ外国人が食べるのだからいいやともなるからだ 

「遠くの親戚より近くの隣人」というように親戚でも遠くになると何しているわからなくなり無関心になってしまうのである、むしろ日々顔合わせている地元の人の方が頼りだとなってしまうのである
報道でも福島県の福島民報とかあるけど民友もあるけど福島県でも広いから福島の市町村単位でそこに住んでいる人が報道するのがいいとなる、なぜならそこに住んでいる人が一番関心があるからである
真野側で水質検査をいつもしていると放射性物質はどのくらい高いのかと気になるのである
それは近いからそうなるのである。だから福島県でも広いから報道はそこに住んでいる人がすべきだとなる
それがインタ−ネットである程度可能になったから自分も報道のようなことをするようになったのである。

posted by 老鶯 at 09:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/184144105
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック