2018年08月04日

三春で相馬氏と伊達氏が熾烈な争い (インタ−ネットで読める一連の物語)


三春で相馬氏と伊達氏が熾烈な争い

(インタ−ネットで読める一連の物語)


伊達政宗の夫人愛姫の父田村清顕は三春城主でしたが、天正14(1586)年に亡くなりました。清顕には男子がいなかったため、相馬派と伊達派で家督を巡り争いがおきましたが、故清顕の婿である伊達政宗が調停に乗り出し、跡継ぎを清顕の甥であり伊達家の血も引く宗顕に定めました。(田村仕置) 

しかし、当主・田村宗顕が小田原北条攻めに参陣しなかった事を理由に、豊臣秀吉によって田村家は改易されてしまいます。(奥州仕置)
  このとき、田村宗顕をあえて参陣させなかったのは、他でもない政宗でした。 
 そして、結果的に田村領は伊達政宗に与えられてしまい、事実上の領地乗っ取りとなり、改易された宗顕をはじめ田村家中は 「政宗にしてやられた!」 と大いに憤慨したと記録されています。


清顕は、相馬高胤(たかたね)の娘を室として迎えます。
政略としての婚儀の意味合いもありますが、古道、岩井澤、葛尾、南津島はその時の化粧料として田村氏の領土として授けられたとされています。

この都路村は、田村領の中でも相馬領に近く、隣接の葛尾村(現双葉郡)田村領内でも治外法権的な要素を持った地域で、田村家旧臣が多数移住して開墾していたのではないかと考えられます。

 清顕には男子がおらず、後継を決める間もなく急死したため、相馬家出身の清顕夫人を中心に重臣たちの合議制がとられます。当初は、政宗に男子が誕生したならこれを田村家の後継にするという清顕の言葉に従い、何事も政宗の意向を受け、さらに伊達・相馬両家の家臣は三春城へは入れないと取り決められました。しかし、政宗夫妻の不仲が清顕夫人に伝わると、夫人は実家の相馬家に頼ろうとし、清顕夫人を中心とする相馬派と、伊達家出身で先代隆顕夫人を中心とする伊達派に家中が二分されます


 天文18年(1549)相馬顕胤の娘が三春領主田村清顕に嫁したが、天正14年(1586)清顕が男子の跡継ぎなく没した。清顕には顕胤の娘との間に娘(愛姫(めごひめ))があったが伊達政宗に嫁いでおり、田村家は断絶。田村領をめぐって伊達政宗と相馬義胤が争ったが、結果は伊達の傘下となった。三春家中で相馬側であった大越・熊耳・阿部・栗崎の諸氏は相馬の臣となった。

 田村郡大越村

第一章 大越氏 


 田村家家臣で伊達家召し抱えの田村家御家門方坂ノ上田母神玄蕃頭が天正十五年に記した「田母神氏旧記」(田村仕置き直前の田村家臣録


 母野家の墓碑の写しの一つ[故祠掌田母野坂上衛之墓]と、石に彫るための準備であったと思われる墨書[田母野坂上家之奥津城]を奥から持ってきてくれた。  
 「ウチは田村郡田母神村(現・郡山市田村町田母神)出身で、元の姓は田母野ではなく田母神だった。田母神は田村麻呂と関係があると言われている。                                     

 神社明細書]を見せてくれた。それには、(田村大元神社が)[小山田村今明王壇より移され]と記されてあった。

 その他別系の田村氏
武蔵七党に属す“西党”に田村氏がある。多摩川中域を統治していた日奉氏を祖とする地方豪族である。一族には小川氏、立川氏、中野氏、柚木氏、稲毛氏、平山氏、田口氏、西氏、由井氏、高橋氏などがおり、活躍した武将も存在する。



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この書状で寒気節とあるのは寒い時期である、でも朧月とあるのは春なのである。
春だけどまだ寒いということになる、ここでよくわからないが取籠とはとりこむということで相馬氏への味方として取り込むことをお願いした書状なのかとなる

いづれにしろ寺までまきこんで熾烈な争奪戦が三春で行われていたのである。
それは戦国時代は全国でそうだった、家督相続でももめていたらそこにつけ入られて相馬氏と伊達氏などが好機とばかり侵入してきたのである
こういう経験を介護の時したから戦国時代は弱肉強食が露骨だったのである
相手が弱ったらチャンスなのである、その弱みにつけこまれるのである。
ここは大きなドラマにもなる、小説にもなるからめご姫のことが物語となりNHKでもドラマ化したのである
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これとは別に田村氏は相馬氏と関係して田村氏関係の人が相馬氏に移り住んでいるようである
その証拠はダイユーにある(田母神)である、これはダイユーができる前に田の中にあった、その田がダイユーの建物になったがこの社は残されている
これは単純に田の神と思ったがそうではない、田母神村という村が三春にある
これの由来がインタ−ネットに出ているように坂上田村麻呂に由来しているとすると
三春関係の人が相馬氏と関係してここに移ったためだとなる
信仰も人とともに移動するからである
田村という姓を鹿島で身近に知っている、他でもあるにしてもこの三春から移住してきた
それはかなり有力な証拠である
ともかくここに引用したものを一連の物語として読むことをすすめる
小説のように面白い、一部は小説家して語っているからだ


インタ−ネットの優れている点は知識を関連付けられることである
リンクできることである、図書館ではそういう機能がない、本をいちいち取り出して読んでもわからない、郷土史でも知識が膨大だからである
そして介護とか家事に時間をとられるから図書館に6年間でも行っていない
図書館とは意外と使いにくいのである、何か調べたり物を書くときは自宅でできるのがいいのである、そのために自宅にある程度資料となるものを用意するといい
だから南相馬市博物館のテレビのチャンネルで今回放送した伊達氏と相馬氏の関係は面白かったのである。
そういう地元で番組つくりする、それはインタ−ネットでしているのである
テレビだって本当はyoutubeでもできるのである
ただ手間になるから一人で時間がかかりすぎる、でも今回引用したものを連続的に読むとすでに郷土史の物語になっていたのである


posted by 老鶯 at 09:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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