土着性が失わた現代の生活
(万葉集の歌から学ぶー原発事故の原因も)
あをによし 奈良の山なる 黒木もち造れる室(むろ)は 座(ま)せど飽かぬかも
〜聖武天皇 『万葉集』 巻8-1638
黒木取り草(かや)も刈りつつ仕へめどいそしきわけとほめむともあらず ?大伴家持
人間の生活の充実感というとき金があれば何でも満たされると今ではなるが本当の充実感は得られない、都会だったら田舎でも今は買う暮らしである
何を買うかが暮らしである、その買うということがグローバルになる
例えば庭で葡萄か何か果実でも野菜でも育てわずかでもなるときそこに充実感を覚える
エデンの園ではエデンの園の中に果実でも木の実でもふんだんにあった
それは遠くの外から金で得るものではなかったのである。
それで飯館村の人が山菜などとって暮らしていたがそれができなくなりすべて金で買う生活になった時不安になるというのもわかる
何か生活の充実感がなくなる、それは土着的生活がなくなったからである。
今なぜ故郷とかに愛着がなくなったのか、それはすべて金で買う生活をするようになったこともある、もし農家が8割とかの社会だったらその土地でとれたもので生活していれば
親からその土地でとれたものを与えられて生活していれば親のありがたみとかその土地のありがたみとかを実感して暮らしているから自ずと愛郷心が生まれる
そしてみんなが農業していれば同じ心情になるから連帯感が生まれる
黒木取り草(かや)も刈りつつ仕へめどいそしきわけとほめむともあらず
一方でその時代でも平城宮とか都が生まれるとき農業は軽んじられてきていた
現代は農業や漁業や林業は軽んじられていた、それに従事する人は一割にも満たない
たから親でも農業などやるなとか跡継ぎいなくなっていた
田舎でも土着的生活をしている人は少ないのである。
商業的工業的生活しているのが現実でありみんな会社員なのである。
サラリーマンなのである。だから土着性が薄れている
すると愛郷心でも起きにくい、物は金で買うことでありその土地のもので生活するということでもないからである。
家を建てるにしてもそうである、外材であり大会社が一週間くらいで家を組み立てるだけである、昔は半年くらい普請にかかっていたから一大事業になっていた
大工も土地の人でありその材料もその土地から提供されていたのである
自分の家も柱を橲原(じさばら)からとれたもので作ったといつも姉が自慢していたのである。すると橲原と結びつく土着的なものしとて自覚する
農業でも右田の人は馬車で橲原に入会権として土地をもっていて草を刈り運び肥料にしていた、ここでも右田と橲原は山と結びついていた
水でも山から水が流れてくるから田んぼは山と結びつき葉山(端山、羽山・・・)信仰が生まれた、羽山とは低山なのである。それは田んぼと関係して生まれた稲作と関係して生まれた信仰である。
そういうふうにその土地にあるものをできる限り活かして生活していたとき故郷はありえた、ふるさとの山はありがたきかなという心情で啄木でも一致していたのである
それが失われたときまたふるさとというものはただ一時的に滞在するような感覚になる
それで原発事故で簡単に町でも村でももぬけのからのように人がいなくなったのである。もちろん放射能の影響のためだともなるがそんな簡単に故郷を離れるということはやはりそういう社会になっていたからだともなる
ともかくこの歌のいいのは何かその土地に生活することの充実感が満ちている
それに共感したのは自分の家がそういうふうに作られたことで感じた
自分の家でも広い八畳の間がありそこで寝ていると家は安らぎの場となる
家を建てるその土地に家があるということはやはり土着したことなのである。
その土地に根を張ることなのである、そして家というのは実は人間の寿命より長い
人が死んでも家は残る、家の方がつくづく寿命が長い、古い家は百年とか二百年とかもっている、外国だと石とかなると千年でも存続し続ける
人間の寿命は短い、家の寿命の方が長いから遺産として残るのである。
だから家は一代で終わらない、万代(よろずよ)までとなっている、そのように家の寿命が長いことで充実感がある、そこに住んで飽きることがないとなる
しかし人間は死ぬ、しかしその家は残っているのである、二代目三代目として住んでいるだから家は一代だけではない代々受け継がれるものとして残る
ただ現代の家はそうした重みはなく何か一時的組み立てて後は分解するという感じになっている、土地の材料でもないし土地の大工もかかわらないのである。
そこにどうしてもその土地に暮らす充実感が得られないのである。
そういうことで原発事故を契機に簡単に離散して分散して帰らなくなり誰も住まない土地となってしまったのかとも考察したのである
海でも魚をとっても暮らせない、農業しても生活できない、林業は外材であり金にならない、では何で暮らせばいいのか?
原発がいい、それで漁業者は漁業権を東電に売り渡し金にした、農業でももともと金にならないから農業だけはやるなと子供が親に殴られたという話も極端でもそうなっていたのである。その子供は原発や建築現場で働いたからである。
そして原発事故で漁業も農業も林業も一番痛手受けた、でも前々らかそういう一次産業は金にならないとなり誰も熱心にその生業にたずさわろうとはしなかった
それで生業を返せと抗議するとき矛盾しているものを感じたのである。
あなたたちはどれだけその生業を大事にしてきましたか?
なんとかその生業をやめて金にしようとすることしか考えていなかったでしょう
それを今になって生業を返せというときそれはやはり補償金を欲しいしかない
ちょうどこの際これを口実に金を東電とか政府からむしとればいいとさえ極端になればなる、金をもらうだけもらう、それを堂々と主張できるともなる
人間はともかく何か矛盾した存在なのである。お前は何なのだ、ただ金があるからのんびりとしている、風流とかで旅したりしているが農業とか漁業とかの苦しみをわからない
そうしてし必ず人は責められるところがある、そして矛盾してくるのである
だから三野混沌などは極貧のなかで農業してきたのだからそういうことはない
でも山尾三省になると何か貧乏を売り物にしているというふうに見られるのである
パンが贅沢だとなれば現代生活では何なのだとなるからだ
どうしても共感するものがあっても現代では受け入れられないのである。
三野混沌になるとそういうものではない、農民はそうして生きたのでありリアリティがありその言葉も重いものとなるるのである。
ただそんな厳しいことを習う人は現代では一人も農民ですらありえないのである
それだけの時代の差が生まれてしまったのである。
逆にわずかな土地にしばりつけられて奴隷のように働くしかないとも見れるのである。
農業でも過酷でありそこから脱するために苦労してきたのが人間だともなるからだ
ただ先人の求め苦労したことから現代を対比させて学ぶということは常に必要なのである現代をしるためには歴史を知らねばならないとなる、歴史から学ばねばならないとなるのである。
精神的損害は金では賠償できない (原発事故でも犯罪でも他でも同じ)
三野混沌の土着的生活が現代に問うもの (原発事故で故郷まで失ったものへの教訓)
我ながら自分の文章を読んで感心しているのも不思議である。
ここから発展して続編として書いていることがわかる
ただ自分の書いたものでも忘れているのである。
われわれの文化を悩ませる、「駆り立てる衝動」は、現代にとどまることへの躊躇となって現れる。より多くを求め、よりよくなるために過去を捨てていかなければならないわれわれには落ち着きだけではなく、根もない、われわれは同じ場所にとどまってはならないのである。それは職業や生活水準だけのことではない、家族や共同体さえも知らぬ間にだが確実にわれわれがとどまってはならない場所になりつつある
上向きの社会移動性とは単に地位的、階級的、物質的な上方移動を意味するのではない、それは地理的な離別、すなわち両親の価値観や趣味からも遠ざかってゆくことも意味する。(豊かさの貧困ーポール・L・ワクテル)
この引用文はなるほどと再確認した、
地理的な離別、すなわち両親の価値観や趣味からも遠ざかってゆくことも意味する
まさに三野混沌とかの親や祖父母の価値観など受け継ぐ人はいないなのである。
ただ豊かさを求めて金だけを求める価値を求める社会になっているからだ
だからこそこんなに簡単に町でも村でも解体したともとれる
どうしても放射能だけの影響だけこんな簡単に町とか村が解体して荒地と化することが考えられないからである。
現代文明は土着性の失った社会であるから他でもこういうことが何かをきっかけに起こるのではないか?
明治でも三陸津波でも一万人死んだとかあるがその後もそこで漁業して人々は暮らしていた、なぜなら土着した生活だからそこを離れて生活しえようがなかったから危険な港の近くで便利だから生活をつづけたのである。
結果的にはそうして津波の被害があっても元の状態に戻ったということがあるからだ
そしてなぜ原発事故では老人だけが取り残されて若い人が流出したのか?
放射能のためだとなるがそこに若い世代と老人の断絶があったからかもしれない、そもそも今の老人の親の価値観を受け継いでいる人はいない,三野混沌などの言葉など知る人もいないし伝えてもいないだろう
ただ金を求めて原発を積極的に誘致したのである。
結果として今度は金になり豊かになっても原発事故で今度はその親が子供から捨てられたともなる
でも子供は実は原発て親が働いて豊かな暮らしをしたとい矛盾がある
そして親を故郷に残して捨てたというのもまたそうしたカルマがやがてカルマがめぐってくて苦しむかもしれない
カルマの法則が常に人間社会には適用されるのである。カルマから人間は逃れられないのである。