夕霧と合歓の花とラベンダ−(幻想的な霧の風景)
霧つつみ夕べや眠る合歓の花
夕霧に浮かべる母や合歓の花
霧深くつつめる墓地や合歓の花
霧の夕やほのかに匂ふラベンダー
ラベンダーに眠れる蝶や霧深し
草埋もれ霧の深しも鶯の夕べ鳴く声聞こえけるかな
藪萱草一〇輪ほど咲く草深し夕べたちこむ霧のつつむも
たちこめる夕べの霧に我が母の面影浮かび合歓の花咲く
霧は別に四季を通じて起きる自然現象である、だから霧を秋の季語とすることはできないただ秋霧としているから秋の霧は秋になる、夏の霧は夏霧としているし冬の霧もある
ただ霧となれば秋とは限らないのである
ただ霧を秋の霧としているのである。ここで霧の夕としたが夕霧と最初していた
それを霧の夕にした、別に夕霧にしてもいいがそれだと秋を感じさせるから霧の夕とした実際は夕霧でも良かった、季語の解釈はいろいろであり定型は必ずしもないのかもしれない
昨日もそうだったが今日もこの辺は霧が夕べになると深くたちこめた
広島の方は水害で被害が大きかった、つくづく日本は災害の国である
津波という大災害があったらまた西日本では水害の被害になりあんなに人が死ぬのも意外である
ここは雨はほとんど降らず幻想的な霧であり霧の情緒にひたっている
水害とかの被害にあった人はこんなのんきなことをにはならない
霧はこの辺では海から朝にたつことが多い、今回は山からたちこめる、それで雨は少雨である、それで霧の中を自転車で走った、なんとも幻想的な風景になっている
何か霧で自分の母親の面影が浮かびそこに合歓の花が咲いている
母のことは生きている時は家では脇役であり思っていなかった
でも不思議なのは死んでから目立たない母のことを思うようになった
性格的には自分と似ている、外交的ではない内向的だからである
内向的な人を外交的な人は嫌う,一般に好まれるのは外交的性格で陽気な人である。
でも内向的な人の性格もいい面はある、ただそれが認めにくいのである。
だからこたそ死んでからその美点に気づいたのである。
母は霧の中にそれも夕霧の中に浮かぶのがふさわしい、やせていたし細身であり内向的だからである。何か幽霊のように霧の中にそれも夕べに浮かんでくる
それがふさわしいのである。
このような感覚はなんというか死んでから感じたことであり自分でも不思議なのである。死者というのは完全に消え去るのではなくやはり生き続ける、面影として浮かぶというときそうである、万葉者の恋の歌が死者を思うものだというときそうかもしれない、
そうなると恋愛歌でなく深いものになる、恋愛歌だったらうわついたものとしかならないからだ、万葉集は何か深く読まないと鑑賞できないのである。
そもそも俳句でも短歌でも深く読むことがないと鑑賞できないのである
ラベンダーの夕べの霧の中に匂うのも何ともいえない情緒があった
霧は幻想的にする魅力あるものだということを今日は一層感じた
月光のしみる家郷の冬の霧 蛇笏
霧と検索したらこの句がでてきた、これは秀作である、家郷と月光と霧を一体化して表現している、これは家郷に長く土着して住んだから作れた句である
家郷の重さがありこれは名句である、こういう俳句でもやはり鑑賞することがむずかしいのである。これは重厚な俳句である。俳句でもこれだけ表現することができる
霧の中に月光というのも幻想的なのである。