大原と橲原(じさばら)を結ぶ道
(森の中の道で車が通らないのでいい-無意識に成長する木(詩)
この道はほとんど車が通らない,田舎ではこういう道はどこでもある
でもあそこは特別通らない,なぜあそこに道を作ったのか?
別に橲原(じさばら)でも小池は近いし道はある
ここを通るのは車ではまれである。
木蔭にずっと休んでいたけどほとんど車が通らないから気持ちが良かった
車が通らないことは癒しになる,今はどこだって車が通る
あそこは車は本当に通らない
そこに森がおおっていて静まり癒しになる
車が通らない道というのは今になると不思議である。
車が通る道で暮らしているからそれが当たり前となってしまっているからだ
だから車が通らない道がもともと当たり前だったのだがそのことがわからなくなっているそれは道が歩いていたのが歩かなくなったのと同じなのである。
あそこは贅沢な道である,何か仕事とかで車もほとんど通らない
ただ残念なのは一部森の中の木がかなり切られていた
そこは土がむきだしになって嫌だった
何かこの辺は原発事故以後そうした土がとられてむき出しになっているところが多いのである。
自分は異常にそうした景観を気にする,音もうるさいのが嫌なのである。
だから自分は現代的環境に向いていないのだ
自分は介護とかで消耗したし年になって余計にそうなり人ごみの中に行きたくなくなったそれで仙台にすら去年は一回しか行っていない
この辺は高い山とかはないからものたりないが森は結構ある,飯館は70パーセント森だからここからも森がつづいている,その森が癒しになる
そして例えば橲原(じさばら)の入り口に立目石がある
それは変わらずある,その変わらないことが今や貴重なのである。
なぜなら右田の松原ですらなくなった,あまりにも変わりすぎたのである。
それは一身上でも家族がみんな死んだとかともり変化が激しすぎて消耗したのである。
だから変わらないでくれ,そこに変わらないものがいつまでもあってくれとなる
それは老人になるとそうなりやすい,変わりることが嫌だし対応できないのである。
若いときは常に変わっていた方が良かったのである。
老人になると変わることに耐えられなくなるのだ
もともと自然は変わらないの普通である。でも自然でも津浪で松原が喪失したとか変わるあとは工事で変わる,飯館村の大倉の坂を越えた所の小川はなくなった
とぎれどきれになた森が切られて道になったからである。
こうして自然も実は喪失したり変化するのである。
ただ自然でももしこの道が森のままだったらこの森を意識しないということがあった
ここに道ができてここに森があったということを意識するようになったからだ
だからこの道は自分にとってはいい道だったと思う,贅沢な道である。
ただ経済的効果からするとただ公共事業としての効果だったのかとなる
田舎では実際に道を作りすぎていたからである。
それは必要というより業者にとって仕事のために必要だったのである。
無意識に成長する木
車の通らない道
車の通らない道
深く影なして
涼しい風が通ってゆく
深い森に木がゆっくりと成長する
大地に根を張り成長する
栄養は尽きることがない
そんな心配をする必要がない
木は確実に時間の中に成長する
一分刻みの時間ではない
一年十年単位の時間である
木はそこにあっても意識しない
でも木は自ら成長する
深い森の中に音もなくゆっくりと
あらゆるものにせかされる
尽きない不満がおおっている
森に成長する木は何の不満もない
大いなる沈黙の中に
無意識に音もなく成長してゆく
自然は常に沈黙している,だから自然に同化するには沈黙が必要である。
自分は特殊な立場で禅僧のように沈黙する一面つづけてきた
そんなことができたのはつくづく環境に恵まれたのである。
自分は学校もそうだが会社勤めでもできない性質だった
体質的にもそうだった,何か規則通りにできない体なのである。
だから一番嫌だったのは学校だった
大学は授業に出なくてもいいから自分にとってはいものだった
その後自分は仕事もせず遂に老人になったのである。
これは恵まれた家庭環境があり自然とそうなっていたのである。
自然は人間のように意識をもたない,無意識なのである
これも不思議だと思う,人間は意識の塊りである。
常に意識して生きている,その意識することに疲れるのである。
自然は木でも岩でも森全体でも地球全体でも自ら意識することはない
それで苦しむということがないともなる
植物が苦しむということはないからである。
動物になると苦しむが植物や木や石でも何か意識しない
その無意識なるが故に無苦痛であり何か不安もない
人間は常に不安にさいなまさているのだ
それは常に何かを意識するからである。
ただ人間は意識するから生きている
意識がなくなることが実は死だったのである。
家族でも意識しているときは相手が誰かを知っている時は意識しているときは生きているその意識がなくなると死になるのである。
ただ人間は意識することで苦しむのである。
自然は無意識の世界だから癒される
あそこの道はそういう点で心を休めるのにはいい道である。
それが山の奥の方でなく近くにあるからいいのである。
結構あそこは森が深い場所だったのである。
木々の道、リスル=アダンの森
画家 : テオドール・ルソー
この絵も大陸的である。大きな川が流れていて牛が水を飲んでいる
こういう光景は日本にはない,川が大きく広い
日本にはこうした大きな川がないのである。
ここのサイトは絵を紹介している,インターネットとはこうしてリンクして読むのが効果的なのである。
自分の関心からリンクして読む,「森の道」として画像検索してここのサイトを発見したからである。
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