田舎の少子高齢化
(田舎の生活が逆に見直されることも?)
自分の組の10家族
一人暮らし 4人
老夫婦の二人暮らし二家族
子供のいる家なし
60歳以上 10人
これだと活気がなくなる,一人暮らしの人はやがて大きな家に住んでいるが空家になるかもしれない,子供がいないとなると街から離れた農家の部落では祭りが維持できないとかテレビで放送していた
そこは新地の福田というところであり丸森から神楽が伝わっていたのだ
それは子供だけでする神楽であった
でも後継者がいなくなるとか言っていた,こういうことはもうどこでも起きている
それよりその神楽はあくまでも農業の農家の祭りである
五穀豊穣を祈る祭りだとするとき現代に合わないものとなる
それは昔の村だったら成り立つものである。
今は村でもみんな農業しているわけではないからである。
田んぼも委託して何もしない農家が多いのである。
隣が空家になっていて近くの人が新築するためにそこを借りた
その家には子供がいる,めずらしいなと思った
孫と遊んでいる祖父母がいる,そういう姿も見ていないからだ
その家は若い夫婦がいて祖父母がいるから大家族である。
そういう家族が普通だったのだろう
近くでも知っている人が自転車屋でも娘が東京にいるが後継者はいないからいづれはやめることになる
そうすると町には一軒も自転車屋がなくなるのである。
するとかなり困ることになる
同級生の人も娘は東京にいる,地元に住んでいる息子や娘が少ない
するとどうなるのか?
やがては空家となり墓を守るものもいなくなるのである。
それで墓じまいとかなる
そして田舎に故郷に帰ってくる老人も増えてくる,そういう人と駅でもあったし他でもあった,つまりまた老人が増えるのである。
商工会で街を良くしようとして集まるとしても50以上とか多いだろう
すると将来を考えるより老後を考える,30代まで40代までならなんとか将来を見る
50以上になると無理になる
それで女川とかでは復興するのに老人は口ださないことにしたというのもわかる
老人はどうしても新しいことについていけないのである。
変化に対応できなくなっているのだ
そして老人が求めるのは安定であり安心である
何か例えば土手を毎日歩いている
そこに桜並木がありそこを毎日通る
その桜は太いのである。もう大分前にこの地区の人が植えたものだからである。
その木を見ていると何か心が安定する
そこで求めるのは信頼とか安定とか安心なのである。
それはこの土地に長く根付いて成長したものである。
そうして変化しないものを老人は求める
それは別に悪いことではない,そういう生活もまた現代では求められているからだ
めまぐるしく変わる世界がいいとは限らないのである。
大地にその土地に深くねづいた生活を求める
そういう時代の変化もある,東京などの若者が田舎志向になっているのもそのためであるだから老人の志向するものがすべて悪いとはならないのである。
若い人が志向するのはすべていいとは限らないのである。
結局高度成長時代は若い人向きの社会だった
若い人が多いから一面活力ある社会だったとなる
でもその高度成長が終わったとき今度は成熟社会になる
すると社会のモデルも変わってくるのである。
理念における二つのモダン(近代)なモデル(模型)のモード(流行)があります。ちなみにモダンとモデルとモードとは、語源にあっては同根です。つまり近代とは「最近の時代」などというカレンダー上のことではなく、「模型が流行する時代」ということを指します。
西部邁
モダンとは模型のことであり型にはまった模型的思考のことである。つまりそこに新しさはないのである。誰かの真似ごとがモダンなのである。
西部氏に共感することは古いものが必ずしも古いものではない,新しいものが必ずしも新しいものではない,すべてのものは歴史的生成されたものであり全く新しいもはないという考え方である。
何か自分は自然とアイディンティティ化することをもとめてきた
木があるとき木と一体化する,すると心も安定して安心するとなる
その傾向が年がとると余計深まってくる
人間もやはり自然の中に生きる自然に生きる生物だからそうなるのがまさに自然なのである。
根を張る木
深く深く
強く強く
大地に根を張る
信頼の樹々よ
そこに安らぎがある
木は大地に根を張り
深い影をなして
ここに静かに成長してゆく
その時は長い
そうして信頼を深めてゆく
信頼は時間によって作られてゆく
偽らざる木よ、正直な木よ
そこに安らぎがある
人間はそのように
落ち着く場が必要
精神的に安定する場が必要
そこで仕事も成就する
こんなふうになってゆくのが自然なのである。
仕事をするにも成すにしてもそうした安定する場がないとできないのである。
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