2018年05月30日

家(いえ)とハウスは違う (イエは強固な共同体の一つ)


家(いえ)とハウスは違う

(イエは強固な共同体の一つ)

日本人が家というとき何か英語で言うハウスとは全然違っている
英語だとホームである,ホームタウンが故郷である。
ホームというとき何か還るべき場所としてある
ハウスとホームはまるで違っている
ハウスは寝起きする箱としてしか見ていない
だからアメタリか移動社会だというとき一時的に家というハウスがありその土地から離れて移動する遊牧民的生活になる
そもそも移民の国だから土地に対して愛着がないのである。

日本人が家(イエ)というときはイエは単なる寝起きする場所ではない
家にはまた歴史が深くかかわっている,祖父母までが深く家にかかわっている
家には先祖が住むという時そうである。
古い家だったら特にそうなる
イエはだから単なる建物ではないハウスではない
精神的紐帯なのである。
だから原発避難者でも家に固執するのは老人なのである。
その家は家族がともに過ごした記憶となる場だからである。

家は一つの共同体であるから何か夫婦だけではそうならない,夫婦が子供をもつとき家になるのかもしれない,そこで家族が形成されるからである。
そこで一つの共同体となる
家は明らかに最も基底をなす人間の共同体なのである。
確かに血縁を基にしても養子なども入るから共同体なのである。
だからこそその家の延長が平氏でも源氏でも外国でもハウスブルク家とか国家にまでなったのである。

家が共同体となるとき運命共同体にもなる,最も基本的な共同体なのである。
それは時代が変わっても変わらないものがある
家が今やホテルだとかなっても最後のよりどころとして家がある
他にそんな共同体があるのかとなるからだ

ただ確かに家というとき家をそうして基本にすれば家の外に対しては排他的になる
そういことはあるが実は家自体が血縁というのではなく共同するもの共同体としての核を形成してきたことは人間として変わらなかったのである。
家という人間の基礎を作る共同体すらなくなるとどうなるのか?
もう安心する場がなくなる,すべて回りが敵となる
家族がなくなったら身寄りがなくなったらそうなるのである。
それは野獣の群れに放り出されると同じになる

ただ一方で家は宗教でも家が否定されてきたのか?
それは宗教ではキリスト教でも仏教でもそうである。
血縁で結ばれる家を否定してきたのである。
それは家が血縁という狭い範囲での共同体でありより大きな共同体を形成できないからである。
日本では村が強固の共同体であり日本人の姓が必ずどこかの村が起源になっていることでもわかる
血縁より地縁になったのが人間の歴史でもある
血縁より地縁が大きな共同体となりうるしそうしないと社会は維持できないからである。

人間は動物と違うのはそうして共同体を社会を作ることである。
それは血縁だけではない地縁であれ国家であり共同体を作ることにある
その共同体は家より家族より強固なものとなるから戦争で日本人が3百万人も死んだともなる,犠牲になったともなる
家というときも最初の共同体でも何かそこに複雑だが犠牲が強いられことがある
共同体とは人は別個にあっても犠牲がないと維持できないことがある
城を作るのに人柱を要求されたのもそれは共同体を保つためだったからである。
城も家という強固な共同体だったからである。
だから会津では城が燃えたとき白虎隊の悲劇が生まれた
城は単なる建物ではない,生活でもあらゆるものが一体化した象徴としてあった家なのである。

現代にはもうそうした強固な家(いえ)なくなった,ただ会社がその代わりのようにはなった,なぜなら会社で働くことが長いからそうなる,時間を会社に費やすとすればそれが人生だったともなるからである。
ともかく人間は共同体を必要とする,それが経済人間化したとき村がなくなったりして
その紐帯は壊れた,その時どうなったのか?
原発事故で町や村が簡単に捨てられて廃墟化したりする
そこにはもう村や町を維持しようとする紐帯も共同体も実は形だけになっていたともなる
なぜなら犠牲になっても共同体を維持しようとするのが人間だからである。
戦争のときを見ればわかる,その是非はともかく300百万人が死んだ犠牲になったとなるからだ,そんなこと今の時代にできるか?
ただすべてが利を求める時代である。利がまず優先される社会である。
利にならないことはしない,それはカルト宗教でも利の宗教だからである。

そういう社会は意外ともろい,分離解体しやすい,みんな利だけを求めるのだから便利さだけを求める社会だからそれだけを求める社会だとしたら何か困難があって犠牲になることがあったりしたすぐに原発避難民のように離散してゆく
もちろん放射能被害とかありまたそれだけはないにしてもそうなりやすい社会ではないか家族は家(イエ)は必ずしも利だけではないものによって結ばれている
家族愛もありその他に代々受け継がれた歴史もある
だから家の歴史がありそれによっても結ばれているのが家族なのである。
だから核家族となると結びつきが弱いのである。
それは資本主義社会の工業社会の生産的単位として戦後に作られたものであり農村社会だった地方ではそうはなっていなかったからである。
やはり長男があって家が維持されてきたからである。

グローバル経済ではそうした共同体とか共同性を作らないのである。
物だけのやりとり便利さだけの追及となり豊かになっても世界が共同するということ犠牲になってまで共同するということはない,むしろ利がなくなると利で対立することになるそれが貿易戦争になる,それはただ利を求めることだけだからそうなる
人間は国家というとき大きな共同体を作ったが世界となるとできなかった
そこで戦争になって犠牲を強いられたのである。

例えば日本では明治維新の時家中心にして日本国家共同体を形成しようとした
親が天皇であり子が国民としたのである。
明治以降に家族墓ができたのであり江戸時代には個人墓だったことでもわかる
これは意外なのだけど侍の墓でも個人墓なのである。一家の墓ではないのだ
庶民でも幕末には豊かになった農民が個人墓を作っていたのである。
それまではホトケッポとか共同墓地に埋葬して家族墓も個人墓もないのである。

そして大東亜戦争でも

神武天皇の「八紘一宇」の御勅令の真の意味は、天地四方八方の果てにいたるまで、この地球上に生存する全ての民族が、あたかも一軒の家に住むように仲良く暮らすこと、つまり世界平和の理想を掲げたものなのです

ここでも家が共同体の基本としてある,世界が家のように家族のようになるという思想なのである。
おそらく日本は江戸時代でも武家の支配だが御家中と所属する藩を呼んでいた
野馬追いの旗にも御家中とあり日本の共同体は村の地縁があり家(イエ)が基本にありそれが拡大解釈されたのである。
ただその思想には限界があった,そういう思想ではとても世界を統一する思想とはなりえないからである。

宗教はキリスト教でもイスラム教でもそうした家とか血縁を超えた思想があるから共同体が生まれた,ユダヤ教は以前として血縁主義民族主義だから世界的に普及しなかったのである。
ユダヤ人でなければ救われないとなれば排他的になるからである。
つまり家からまた民族が生まれた,血縁として血統として民族が生まれた
すると民族同士が争うことになる,民族は他の民族に対して排他的になるからだ
だから世界が一つの家になることは不可能だとなるのである。

いづれにしろ現代ではすべて経済人であり経済の価値の中でしか生きていない
だからそこで便利な豊かな生活を遅れないとなるとそれ以外の価値を認めないとすると
簡単に町でも村でも見捨てて外に出る,また外に出て暮らしやすいからである。
原発事故が起こらなくても一億円もらったらこんな田舎出て行きたいという若者は普通にいたからである。
つまり故郷に田舎に求める価値は経済的なものだげであるという人が多い社会だったのである。
だから現実に一億円補償金もらったらさっさと親でも捨てて外に出て家を建てて帰らないとなったのである。
経済的価値しか認めないからこそそうなったのである。

家族共同体ならなんらか犠牲が強いられることはある,でもそれもしたくない,便利な豊かな生活をできればいい,そういう価値観しかないから簡単に町でも村でも崩壊したとなる,それは原発事故だけの原因ではない,そういう社会になっていたから原発事故を契機にして現実化したとも自分は見たのである。
自分はすべてが原発事故のせいでそうなったというのに疑問をもっていたからである。
あらゆることが原発事故のせいだとできるのかという疑問である。
そうでない原因もすでに社会自体にあったのではないかという疑問なのである。

onke12.jpg

野馬追いで天皇旗印があり御家とあるのも日本は家としての共同体の歴史だったともなる


posted by 老鶯 at 18:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題
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