2018年05月01日

駅から相馬市まで歩く人


駅から相馬市まで歩く人


今日は駅から相馬市まで歩くという人がいた,前にもいた,年配の人であり今日は暑いから楽でないと見た
旅行すると今は便利になりすぎている,だからかえって旅しても何か後で思い出してし記憶に残ることがなくなる
六号線を行くと早いが歴史のことがわからなくなる

日立木から松並木を通って相馬市に入れば相馬に来たなと思うだろう
六号線だとそういう感覚がなくなる,旅はそれだけ便利になりすぎて通りすぎるだけになったのである。

七ヶ宿街道を自転車で行ったときの思い出は残っている
芒の原の道を行き鏡清水で夕暮れになっていた,上山に暗いなかを走っていた
その時旅情を感じたのである。あそこに電車で行っては旅情はあまり感じないのである。鉄道と街道はまるで違ったものだからである。
鏡清水に来るともう上山の城は近いなと感じる,だからここで姫が化粧するために顔を写したというのがリアルなのである。
七ヶ宿となると今は鉄道も通らないし辺鄙であるからかえって当時を偲ぶことができる

七ヶ宿の旅(俳句、短歌-自作)


七ヶ宿街道
鏡清水

今日相馬市まで歩いた人はインターネットでプリントしたものをもっていた
おそらくそれが出ていたのはこのサイトだろう
ここは良くできているからだ,ここまで詳細に見るのは地元でもしていないからだ
旅の問題としてそこがどういうところかわかりにくいのである。
本は二冊ももったりしたら厚いとしたらもてない
第一その場に詳しい情報はないし調べられない,今はスマホをもっているから調べやすいが
それでもその場の情報を得るのはむずかしいと思う
検索すること自体めんどうになるからだ,旅は急いでいるしゆっくり検索できないのである。

百街道一歩の道中記

ともかく歴史を偲ぶなら昔の街道を行くことだがそれが今はなかなかできないのである。車で来た人などただ通りすぎるだけになってしまう

後は福島市から来た夫婦である,福島市から来る人も仙台についで多い,その人は松川浦を見に行った
連休だから観光目的の人が増える,駅では無人駅でもあり案内することがありそこで全とした会話が成り立つのが面白いとなる

それからゴミが落ちていたので拾ったりしてホーム内のごみ箱に投げた
あそこにごみ箱があるのを知らない人がいる,気づかないのである。
喫煙所になっている所には今回はボール箱のようなものを置いていった人がいた
それはかなりゴミであったからごみ箱に投げた
仕事といってもそんなところである。
でも自分は毎日一回は駅によって見て回り案内したりしている

ともかく駅の役割には外来の客を旅人を迎えることがある
駅(うまや)は厩(うまや)ともあり馬が休む場所であり旅人も休む場所だった
旅人を迎え見送る場なのである。
鉄道の駅も迎え見送る場である
ただ常磐高速でもそういう場になっていない,ただ車が休息によるというだけでありそこで迎えたり見送ったりすることはないのである。

駅を出て街道歩む旅人を我が見送りぬ夏の夕ぐれ

駅から鉄道で見送るのと駅から歩いて行く人を見送るのは感覚的に違う
あの人は街道を歩いて行くのだなとイメージする,相馬市までは15キロであり遠いのである。
だから常に街道では迎えたり見送ったりする人がいたのである。
そこに出会いもあったし分かれもあった,それが街道を行くことだった
駅にはその感覚がまだ残っているが歩いて旅する人を迎えたり見送ったりするのは違うのである。

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