2018年04月18日

小さな畑の効用 (荒地にしておくことよりはいい,金にならなくても)


小さな畑の効用

(荒地にしておくことよりはいい,金にならなくても)


小さな畑には自分は投資した,一〇万以上払った,肥料代とか種代とかこの前は道具を盗まれたとかいろいろあるのだ,鳥に野菜を食われたとかもありまず小さな畑をするだけで金がかかる,収穫してもらったものはほとんどないのである。

ではそんなものに投資してなになるのか?普通だったら銀行でも利益にならないものに投資しない,ではそれが全く無駄なものかとなるとそうではない
この辺では一時田畑が荒地化したのである。
今でも荒地化した所が多いのである。この小さな畑の回りも荒地化している
その荒地化していることが荒廃したものとなる

つまり農業は景観を作っているというときそうだった,その景観は田畑があって作られていたのである。その田畑がなくなるときそこは草茫々の荒地となる
ただ一時津浪でこの辺が原始の状態になった,湿地帯になったことには驚いた
八沢浦が元の入江にもどったのを見たときほど驚いたことはない
だからその入江を埋め立てて田んぼを作ったというとき実は自然の景観を破壊していたのである。
稲作も文明であり文明は自然を改造したりするから必ず景観も破壊するのである。

文明とはなんらかで自然に逆らうことなのである。
田んぼにしても湿地帯がある,森がある,自然のままだったらそのままだが開拓開墾して田んぼや畑にすればもともとあった自然は改造されてなくなるのである。
ただ農業は自然と深くかかわって成されるから第二の自然のように感じるのである。

小さな畑を維持することはそれは経済的効果としては利益を上げないのだから無駄だからするなともなる,そもそもその金を誰が出すのかとなる
利益にならないものをしているのは趣味だからである。
趣味でも自分が余裕があってしているのはいい,でも余裕がないのにできるのかとなる
でも経済的効果利益を上げなくてもこの世には有効なものがいくらでもある
第一景観でもそうだろう,景観自体が利益を産むということはないのである。
森だったら木材としてみればそこに利益があるが森自体が経済的効果を利益を上げることはできないのである。

でも森には癒しと景観をもたらす,そういう効果がある,でも利益にならないのである。でも最近資本主義がゆきづまり終わるということが盛んに言われる
それは投資先がない,投資してもうける先がなくなっているからだ
それで銀行で地銀でも利益う上げられないので追い詰められて詐欺まがいの投資信託をすすめている,それで自分も大損したとなる

投資先がないということやAIで人間の仕事がなくなるとか最近良く言われるのはやはりそうした資本主義が継続しても社会に大きな変化をもたらすのである。
スルガ銀行ではもうける先がなく何か不正して問題を引き起こした,借金させてアパート経営とかになる,もうもうける先,投資してもうけることができないのである。
だから今銀行は窮地にたたされているから危険なのである。
窮地にたたされれば人間でも会社でもなんでもするようになる,つまり余裕がない人間でも会社でも国でも危険状態になる

だから投資先がないというとき実は別にある,この辺では荒地化した土地を利用して畑にする,それは利益を産まないとしても一応収穫はあり役にたっているのである。
野菜が高いときはそれなりに役にたっていた
だから全く利益を産まないということではない
ともかく資本主義では利益を産まないものは金にならないものは全く無駄なものとされる芸術などでもそれが金にならないなら無駄なものとされる
その人間は無用なものとされ社会的に価値を認められないのである。

でも何かこれからは価値観が変わる,資本主義でもAI化で仕事がなくなりベーシックインカムのことが盛んに真面目に言われているのも不思議なのである。
ベーシックインカムになると一見無用と思われるものでも価値あるものを追及できる
金にならないものでも人間として価値あるものはいくらでもあるからだ
そういうものにむしろ価値が生まれる,ただ必ずしも金にはならない,利益にはならないただそれを認めるものがあれば価値があるとなる世界になる
そういう社会はイメージしにくい,でもそもそも人間の価値は多様であり金になるだけのものが価値とはならなかったのである。

オランダのチューリップバブルでもそうである。そんなものになぜ大金がつぎこまれたのか?これも投資先がなくなった結果なのである。
ただ一方でそんなのんきな社会が生まれるのかという疑問がある
貧困化している社会でそんな余裕があるのか?利益を上げなければ会社など成り立たないとかある
でもAIでもそうだが資本主義が終わりだというときもそうだが今価値観が変わる時代でそうなっているのだ

例えばこれも問題だが八沢浦を考えるとき自分はそこが田んぼであるより入江であった方が景観的に良かったともともとイメージしていたのである。
この辺はともかく荒い波が打ち寄せるだけの荒寥として海なのである。
でも津浪になって入江になったとききらきらと波が光り寄せていたのには驚いた
それはきれいな入江になっていた,古歌にここの入江を歌ったものが残っていたから本当にそうなったのである。
その時確かに死んだ人がいたのだからそんなことを言うのは余りにもひどいとはなった

これまでは米が生活の中心であり米なくしてはありえない世界だったのである。
でも米が減反政策でこれ以上いらないとなる世界は考えられなかったのである。
技術の発達とかで価値も変わってくるのである。
だから小さな畑でもそれが利益をあげなくても土地を活かすとういことでは無駄ではない,効用があるのだ

ともかくこういうことはなんかあまりにも現実離れしているとなるから実現しないともなる,でもベーシックインカムになれば今まで価値がないと思っていたものを追及できる社会になるかもしれない,すべて金にならないものは価値がないとされる社会だったからである。
つまり何か実用性ばかりを追及してきたのが文明だったのである。
むしろ今度は逆に非実用的なものに価値がでてくる,無用の用の時代にもなるのかとも思う
宗教だど禅宗になると瞑想と沈黙が修行である。それも人間的価値の追及なのである。
そういう社会もかつてはあったからである。
そういうものにただ沈黙して何もしないということはなまけものとして拒否される社会だった,資本主義は宗教からプロテスタントからはじまったというとき瞑想などはしない
積極的に働いて他者に奉仕するという思想からはじまった
その価値観が全世界に普及したのである。
どんなことでも勤労は善とされたのである。それがゆきすぎると資本主義は金儲けだけのものとなり害にもなるのである。

とにかく田畑というのは自然の一部でありそれは社会的効用を利益をあげなくても必要なものとして認識することはある,価値があるものとする
景観を維持するものとしてもある,だから利益を上げなくても必要だともなる
ただそうして維持するにも田畑でも労働が必要なのである。
だからその小さな畑すら維持できなくなる,その女性も年であり毎日腰がいたいといっているからいづれ維持できなくなる,この辺で田畑を原発事故以後やめたのは老人が田畑をしていてできなくなったからである。後継者もいないてからである。
前からそれは言われていた,漁業でもそうである。
だから原発事故だけの原因ではない,前から田畑を維持できなくなっていたのである。
それが事故後一挙に荒地化したのである。
現実に隣の畑は老人が這ってまでしていたのである。
家族が車にのせられてきて農作業していたのである,でも遂にやめて荒地化しているのである。こうして誰かが労働しないかぎり田畑は維持できないのである。
するとそこは荒地化してくるのである。景観も荒れたものとなるのである。

人間が平和に感じるのは自然と調和しているときである。

sprinfield1.jpg

この写真のように孫とばあちゃんが一緒に畑仕事をしている,これが本当に平和に感じるこの孫もこの畑を受け継ぐということで故郷の風景でも維持できるとなる
世代の継続が感じられるのである。
そういう風景がなくしたのが原発事故だったとなる

農本主義が未来を耕す」宇根豊著を読んで・・・・ (原発事故で問われた農の大切さ、でも農民も金が第一だった)

これと同じことをここでも書いていたので共感したのである。




タグ:田畑の効用
posted by 老鶯 at 08:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連
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