石神村の紙漉きの歴史
(天明の飢饉の時移住した越中などの人が伝えた)
この抽象画が和風であり和紙に見える
この地が手漉き和紙の里になったのは、天明の飢饉に農民の窮乏を救うため、加賀藩から土佐流の紙漉き職人を呼んだのが始まりとされる。明治33年(1900)には76戸を数え、同35年には紙漉き技術を伝える伝習所も設けられたほどである。恵まれた気候、風土により原料となる楮や黄蜀葵も、自家栽培し余力を二本松の上川崎へ売るほどであったと言われる
いの町紙の博物館について
石神村に嫁いだ女性の家は紙漉きしていた家だった,その家は古い家である。
その紙漉きの技術は加賀藩から土佐流の紙漉き職人を呼んだことがはじまりだという
これも興味深い歴史である。
現実に自分は越前和紙の里に行ったしその土佐の町の紙の博物館にも行っている
越前和紙ではそこで実際に紙漉きをしていたし誰でも紙漉きを試すことができる
土佐の紙漉きが古いから越前に職人を呼んではじめた,だから土佐と越前が結びつく,
それも自分はその二つに実際に行っていたことをふりかえるとずいぶんあちこち旅していた結果だったことをつくづく感じる
そんなに旅している人はいないと思う,それで歴史がたどれるとなる
越中の移民などは農民として来たのでありそうした技術をもたらした人達とは思わなかった,ただ宗教も真宗ももたらしたように何らか移民は文化をもたらすのである
天明の飢饉の時相馬藩では三分の一に人口が激減した,その穴埋めを移民がしてくれた
その時紙漉きの技術が伝わったことは知らなかった
ともかく相馬藩では越中などからの移民が本当に多いのである。
祖先をたどれば越中からの移民だとわかるので交流もある
紙漉きは古くから大きな産業だった,ただ冬に紙漉きをするので紙漉きは女性でもしたくないものだったのである。
石神に嫁いだ女性は農家だったとしても何にも農家のことはしない農作業もしない
夫は会社員であり農家の生まれでも農業はしていない
だから何か農家がどういうものなのかもわからない
サラリーマンの家庭なのである。農家では今はそういう人が多いのである。
純粋の農家は少ないのである。この辺では梨農家とか花栽培している農家とかは現金収入があるのでやっていけるが他はむずかしいからだ
ともかく石神の紙漉きは明治までつづいて有名だったのは意外だった
技術を伝える伝習所までもうけられていたということでもそうである。
それだけ紙漉きが盛んだったのである。
それが越中などの移民の歴史と重なり一つの郷土史として見逃せないものであった
でもそういう技術も絶えて語る人すらいなくなるのも淋しいとなる
インターネットだとこうして貴重な情報が見いだされる場合がある
図書館で何か検索するということ調べることはめんどうなのである。
今は時間がないからしていない,これで興味をもったのはやはり越前和紙の里に行って実際に紙漉きのまねごとをしたことや土佐のいの町の紙の博物館に実際に行ったことであるこれもかなり前になるがいかに自分が旅していたかということに我ながら感心するともなる
晩秋に越前和紙の里たずぬ
あしらいぬ越前和紙に楓かな
いの町や蓮華の咲きて和紙の里