みんながアーティストの時代になるのか?
(AI化で働くなくてもいい社会になる?)
働かなくては人間は存在し得ない時代がこれまでつづいた,それより働かざるもの食うべからずであり働かないものは犯罪者と同じである。
それは働かねば食料も得られないのだから当然だとなる
働かないものは食うべからずであり餓死して死ぬべきであり現実社会ではそうなっていただからこんなことを言っていることが信じられないベーシックインカムも信じられないことである。
だからそんなもの実際は夢物語だというのもわかる
そんな社会などありえないということである。
ニートがヤクザより役に立たないとか言う人もいるからどれだけ嫌われているかである
もちろん自分はこの辺では働かないことで病院とか介護関係で困っている許されないという状態にある,でもそういう人は別にこの辺でも同じようにいる
そもそも人間は無駄飯食わせるということを相当に抵抗感じるだろう
親でもニートを嫌うのはなぜただ食って寝ているだけの人間を世話し続けなければならないのかということである。
だから親さえもういいかげんにしてくれとなっている,殺人事件も起きる
社会的にも何の価値も認められないし片身が狭い
ただなぜそんな人が増えたのかというと親に経済的余裕が生まれたからできているのである。
団塊の世代が生まれたのは貧乏な時代であるから物質的に何かを得たいという欲望が強い時代だった,それでみんな企業戦士となったのである
会社で働けばその欲望を達成できるからである
電化製品から次には車からマイホームと欲しいものがありそのためにがむしゃらに働いた働けばそれだけ給料も鰻上りに上がる時代だったし利子でも7パーセントだったから信じられないとなる
今はマイナス金利である,なぜなら物価があがれば金は目減りするからである。
貯金しても実際は割引でみる,それでたりないと株とか投資で増やすとかなり失敗する
高度成長時代は一千万を銀行にあづければ十数年で倍になっていたのである。
その差も大きいと思った,そして今銀行自体がつぶれるという時代になったのである。
そういうふうに時代が変わることで追いついていけないのである。
みんながアーティストになる時代というけどアーティストとして歌ばかり歌っているとか何かそんなことで人が認めるのか,それはあくまでも素人の遊びでしかないとなるだろうそこにプロ級のアーティストが生まれることはまれなのである。
そもそもアーティストという時何かプロをイメージするのであり素人はイメージしていない,俳句でも芭蕉とか一茶とか正岡子規とか特別な人をアーティストとしている
絵画の分野でも音楽の分野でもいろいろな分野でぬきんでた人でありそれは極々まれなのである。確かに俳句などいくらでも作る人がいてもそれらはディレタントでありそれで日本人がみんな芸術家でありアーティストだとはならない
アーティストは極々まれな存在なのである。誰でもなれるものではない
相当な訓練と天分もそうだが訓練期間も必要になる,ピアノを例にしてもそうである。
楽器一つを習得するにしても長い訓練期間が必要なのである。
自分も時間があったか楽器を習得しようとしたが挫折した
それは子供のときから習いごととしてやっていないとできない
それでもピアノを習ってもものになるのは極わずかなのである。
人間は何か飯を食わせるにしても金を出す方になると親でも子供が何の社会に役にたたない,無駄飯食らいを養うことができるのか?ニートがどれだけ社会に嫌われているか?
それは社会的に存在価値がないものとして見られているからである。
そのために俺たちは働かせられていることでそうなっている
人間はもしAI化でも機械化でもロボット化でもいい,働かなくてもいい時代がきたとしても人間は必ずその存在価値が問われる
これまでは何でもいい働いて稼いで食べている人はその労働がなんであれ価値あるものとして社会的に認められている
ではそんなにみんなが働かなくなってもいいとなったらその存在価値は何なのだと逆に問われる
誰も無駄飯食らいに金を払うのかとなる
例えば僧侶というのが世界中に存在した,その人たちは働かなくても存在が認められていた,かえって社会で価値あるものとして認められていた
それも今になると僧侶は価値が認められなくなる,それで檀家をやめる人も増えてくる
ただ金をとられるだけでありがたみもないということでやめる
実際僧侶は信長の時代でもそういうことがあった
それは武士でも働かないから農民から米を税としてとりあげている搾取者だという思想家もでている,つまり働かないということはそういうふうに常に批判の的になるのである。それは貧乏な時代なら余計にそうなっていた
自分の場合は特殊な過程環境で働く無くてもいいようになっていた
でも一時は働くことを強制されて苦しんだ,自分は学校でもそうであり会社勤めもできない性格だった,団体生活できないのである。
わがままといえばそうなるがそれで特殊な過程環境で働かないまま遂に老人になったのである。
実際自分は60までも旅していた,これも今になると異常だったなとなる
ぶらぶら旅している人はいる,でも60までしている人はいない
退職して旅しているのとは違うからである。
こうなったのは自分の性格と特殊な過程環境のためにそうなれたとなり普通はなれない
なぜそうなったのか?それはたまたまそういう特殊な環境がありなっていたとなる
そもそもアーティストというとき悲惨な天才的芸術家をイメージする
その人たちは天才であるからそうなった,なみはずれたものを生来備わった人達である。それは社会では極々まれなのである。
だからみんなそんなアーティストになどなれないのである。
そういう人達はアウトサイダーであり社会からはずれた人達であったがその価値は認められている,ただ生前は悲劇的に認められず終わったのである。
ゴッホは一枚の絵も売れなかったのである。
ただAI化とか機械化とかロボット化時代になるとき人間的なものは何かとなるとどうも感情的なもの感性的なもの情感とか宗教的なもの愛とかそういう方面がAI化とか機械化できないものとして見るようになることらしい
なぜならそういうものはAI化できないし機械化できないからである。
するとそういう面での価値が高くなる,それは医者とか看護師とか介護士とか人と直接接する仕事である。そこにはどうしても感情が働くからそうなる
感性という面でもとてもAIとか機械には芸術の鑑賞もできないだろう。創作もできない。だからこそみんながアーティストになるとかなる
いづれにしろベーシックインカムが絵空事ではなく真面目に議論されること自体考えられないし銀行がなくなるというのもイメージできなかった
つまり社会の変わり目には価値観が大きく変わる
江戸時代の身分社会から明治に変わるときもそうだった
だからこそそんなことありうるのという驚きになる
自分の一生は旅と遊びだったけどそれも社会に認められなかったけど今になってそういう人生がすすめられること自体これはなんなのだとなる
蟻とキリギリスの例えがあるが蟻はもう認められない,キリギリスの一生を送れとなるのも時代のの大きな変化である。
ただそうなってもキリギリスでも下手な歌手ではその存在意義は認められないだろう。
そんな人のために飯を食わせておくのかともなる
ただ働きづめの蟻のような人は逆に社会的に批判の的ともなる
そういう人を身内で知っているから自分の親は異常だったと書いてきた
働くことしかしないし価値を認めないから異常だった
でももし芸術でも絵でもなんでも金になれば認めていたのである。
蟻はいらない,キリギリスにみんななれ
こういう社会は何なのだろうととまどう,そんなに簡単に価値転換はできないだろう。
働かなくてもいいからいい社会だとなるのか?
でも以前として人間はその存在価値を問われる
こんな下手な歌い手を養う必要はないとかなる,そうなるとまたそういう人達は社会的価値を認められないから苦しいともなるのである。
猫でも犬でもなぜ養っているのか?それは癒しとなるからである。ネズミをとるとか猟犬とか番犬ではない癒しとなるから飼っている,それも価値観が変わったからである。女性は男性にとって癒しとなるからそういう面での価値は変わらない
別に家事は機械でできるしオカズは買えばいいともなる,現実に自分は全部家事をしているしそこで女性の役割はない
ただ一人だと淋しいとなり癒しが必要になる,そこで女性は必要なのである。
つまり今までの女性の働きは家事だったがそうでなくなったときどうなるのか?
女性も家事だけできても価値ないとなる,生け花をしたりピアノをひいてなぐさめるとか何かそこにも芸術的なものが求められる
それはAIで機械でできないからその価値が逆に高まり家事ができるというたげではいい嫁にはならないとなる
そういうふうに常に価値が変わるから今までの価値観を変えねばならない時人は困惑する
そこで教育の仕方もかえねばならないとかあらゆるものを見直すようになる
そうならざるをえないのである。