2018年03月24日

スマホばかり見ていると人間の五感が衰える (駅でもスマホばかり見ているのは異様)


スマホばかり見ていると人間の五感が衰える

(駅でもスマホばかり見ているのは異様)

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週刊朝日3月30日号

駅でまずスマホを見ていると会話ができない,スマホを見ているのに話しかけることができない
スマホを見ている人は他者とのコミニケーションを拒否しているのである。
駅で気づいたことは外部から来た人とか5分でも待っているから話しやすいのである。
だけどみんなスマホを見ていて互いに話あわないというのも何か異様に感じる
ひたすらスマホを見ている,無人駅でスマホだけを見ている光景は異様にも感じる
ただスマホで即座にわかりにくいのがタクシーの番号などである。
タクシーの案内は駅舎を出たところに表示してある,でもそれがわかりにくいからスマホで調べる,でも即座に検索ではでてこないのである。
意外とインターネットは即座に出てこないものがある
家で調べると時間があるから検索を時間をかけてやれるからあったものが出てくる

駅でも無人化するとそこには人がいない,乗客同士も会話もしない
ただひたすらスマホを見ている,何かそれが異様なのである。
ただではなぜタクシーの番号がわからないのか?
もしロボットをそこにおいてタクシーといえば番号を教えるしタブレットを置いてタッチしたりしても案内はできる
でもインターホンがあるのだがそれに気づかない人もいるのである。
地元の人は慣れているからわかるがはじめての人はわかりにくいのである。
そこに無人駅の盲点があった

駅で一番感じたことは必ず待つ時間がある

その待つ時間が人間的なものを作り出していたのである。
電車が来るのを待つ,そこで5分でも必ず待つからちょっとした会話をする
今日も仕事できた人が香川に行くとか行ったので自分も行ったことがあるので
話する,それはほんのわずかだけど直接話する
うどんばかり食べるなというのもわかる,全国を飛び回ると地元の名物の食べ物は食べられるなとか話する

その人はその時駅舎から出た喫煙場になっているところで二人で話していたからその話を聞いて語りかけたのである。たわいのないことだがそんなふうにちょっと話して見送る
そういうことはつづいている,自動化しているから何か教えることがなくても待つ時間に語りかけるのである。

確かに手紙でも手紙を出す返事を待つ間に今までは時間があった,二三日とかで届く
それまで待っている時間がわくわくするとかどんな返事がくるのかとかあった
今は手紙も出さない時代である。電子空間で即座に返事がくる
待っている時間がないのである。
常磐高速の鹿島のセディティは間違って解釈していた,この辺の方言連れて行ってという意味だった,方言を使っていないから忘れて英語だと思っていたのである。

それは別として車だと待つ時間がない,車は着いたら用事をたしてあとはまた車に乗ればいい,そこで休んでいても待つ時間がないのである。
電車には必ず待つ時間がある,そこで人間的な時間が生まれる
現代はなんでもそうした無駄な時間が効率化して省かれるのである。

週刊朝日でスマホばかりしているとかえって知能が劣るとか高齢者は認知症になるとか警告しているのもわかる,第一インターネット空間で旅などできない,実際に旅した後にインターネットでその旅をたどるのはいいがインターネットの仮想空間では旅の体験はできない,旅は五感でするものでありそこで記憶される
そうして自分は旅をふりかえり短歌とか俳句とか詩にしている
それは実際にそこに行ったことを五感で記憶していたからである。
それで記憶が蘇り記憶しての旅ができたのである。

確かに老人になって孫をあやすときスマホを見ていたりしたらできない,幼児には絶えず顔の表情とか見たり一対一の対応が求められるからである。そこにスマホばかり見ていたらそれができなくなる
それは駅でもスマホばかり見ている人には話しかけることもできないからである。
もちろん会話など駅でしたくないさける人もある
そんな場でないという人もいる,でも駅は待つ時間がありそれでちょっとでも会話する
そういう人間的な場所を演出するものとしてあった
無人駅でも待つ時間がありそこで話しかけることはありえたのである。

とにかくこれだけスマホの時代になるといろいろ影響する,脳が変化するというのもありうる,スマホはまた自宅でインターネットしているのとも違う
それは外の空間で絶えず使っていることは外の認識力が衰えることにも通じる
その場の雰囲気などがありスマホではわからないことが新しい所に行ったから感じる
でもスマホばかり見ていたらそうした五感で感じるものも感じられなくなる
スマホばかり見ていたらそこで一句でも俳句を作るとかできなくなる
その場の雰囲気とかを感じなくなるからである。

その駅でも田舎でも何か見るものがあるが見ない,合歓の花が咲いていたり柿がなったりしている,外の風景もある,電車のなかでも外の景色を見ずにスマホばかり見ていてもそうである。
何か五感で感じるものがかえってそうした文明の利器で衰えてくるというのも逆説であるそういうことは前にも書いてきた
ただ自分はスマホしていないから実際のことがわからない
ただインターネットは自宅で絶えずしている,今回の朝日新聞の記事でも今はインターネットで詠んでいる、それでその記事に答えるというのもインターネットなのである。
何かそうした今までのマスコミに個人が答えて書くということはできなかった
今だと気軽にできる,ただ読む人の数が格段に少ないというだけである
週刊誌だったらやはり読む人の数が今でも多いのである。
でも最近週刊誌はつまらなくなったと本当に思う
書く人が決まっているしつまならい芸能人などに書かせているからである。
むしろ無数のプログの記事に面白いものがあるがそれがなかなか出会いないのが難点なのである。

いづれにしろ情報化社会ではスマホを否定しても紙幣とかがなくなりスマホで決済するようになると必需品になる,だからスマホにも問題があるのだがそれを否定はできない
ただ人間的なものが失われ人間の五感が衰えるというのも文明の逆説である。
江戸時代の旅なら濃密な旅をしていた,それは人間との出会いでもそうである。
旅は道連れとなっていた,それは交通が不便だから一回会って分かれたら二度と会えないからである。そこで出会うということは人生の貴重な時間だったのである。

現代は便利すぎて何か人間と人間がすれちがいただ去ってゆく,そこに必ず情が失われている,文明がすすめばすすむほど反比例で情が失われる
その情が失われることで殺伐とした社会が生まれる
インターネットとかの人間でも出会うとそこに危険があり信じられない殺人が起きたこともそうである。面と面で向かって接していればそうはならなかった
それがインターネットの負の面だったともなる
ただ車でもそうだし原発でもそうだったが技術は負の面をもたらすのである。
それを否定すると技術は進歩しないのである。
自動運転でもそうである。歩行者をひいて死なせたというのもそうである。
新しい技術は必ずそうして負の面をもたらすのである。

スマホをもつな、するなとはもう言えない,でもすべてスマホに頼ることはそうしてまた人間的なものを失うのでスマホばかりに頼らないで人間的五感を働かせることに注意を向けることも大事だとなる
スマホですべて何でもわかるわけでないのである。知らない土地に行ったらその雰囲気とかを五感で感じる,そして記憶にとどめる,それは旅でも結局すでに車だと風も光り感じない、運転に集中しているとできないのである。景色もゆっくり見れないのである。
それと同じだからスマホだけを批判するのは間違っているともなる
そういうことはすでに弁明の利器を使うときどこでも起きていたことだからである。

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