彼岸(家族は悲劇で終わる-家族の詩)
かよわきも遂に生き抜く百歳を母は死にしもここにありなむ
姉と母我が家を支え久しきを争い憎むも墓に眠りぬ
草うもるこの墓あわれ誰と知る彼岸にあれば花を挿しにき
墓参りつとめとあれや故郷に彼岸にあれば花を挿しにき
この家に長くもあれなその思いここに残るや我が跡つぎぬ
一家族の終わり
悲しみも苦しみも喜びも
ともに過ごしてこそ家族なり
それぞれの家に思い残りぬ
憎しみ争いもつづきしを
最後は悲劇となりて終わりぬ
長い歳月に記憶はここに刻まれ
荒れにし家も静まりぬ
蠟梅の庭に咲きつ雪のふり
寒の戻りや我が家の古りぬ
彼岸だけど昨日は寒かった,前には雪もふった
今年は寒い日がまだつづいた
ストーブから離れられない,でもそもそもあたたかくなる
暑さ寒さも彼岸までというからそれにあっている
自分の家族はみんな死んだ,最後は悲劇として終わった
シェークスピアが悲劇を題材にしたのはやはり人間は悲劇的存在だからである。
悲劇になるようにできている,家族でもそうなのである。
家族でもそれぞれ違っている,同じ家族はない
家族というとき必ずしも血縁とは限らない
家族とは悲しみも苦しみも喜びもともにした一つの仲間なのである。
喜びだけをともにした家族は家族とはいえないだろう。
必ず悲しみがあり苦しみがある
それをともにしてこそ家族なのである。
なにがそれは故郷にも通じるものがある
故郷とは本当は仲間であるとしたら悲しみも苦しみも喜びもともにした人達の集まりともなる
戦後開墾に入った人達は結束力が強いというときそういうことを経験しているからであるだから故郷から離れたくないとかもどりたいとなっているのが老人なのである。
若い人はまだそうした苦しみとか悲しみ喜びを経験していないからである。
人間は悲劇的存在である。それで「悲しむのは幸い」なりとキリストは諭した
なぜ悲しむ者が幸いなのか?みんな悲しむようになることは嫌なのである。
それがなぜ幸いなのか?これは本当にわからないことである。
つまり人間は悲劇的存在なのである。悲しみに終わる存在なのである。
そういうふうにあらかじめ定められている,それは死があるから誰でも最後は悲惨だとなる
そして人間は家族でもなんらか必ず争いが起きて一つにはなれない
たからこそ離婚が三人に一人とか多いのである
人間は最後は悲劇的に終わる,自分の家族も悲劇だった,でも何かそれでもその悲劇の中に人生の深い意味があったことを実体験からしる
悲しみの故に人間はあり悲しみの涙を神はぬぐいさってくれるというとき
この世はそういう場所だということである。
正直家族というのは血縁というのをキリストでも仏陀でも否定したのはそこに真の人間としての愛が通わないからである。
家族にはそんなことがあるかというとそれは肉の愛だからである。
そういう悲劇が自分の家にあった,それはどこの家にでもある問題である。
この世の肉の家族には平和はない,そこに争いが必ずある
それで嫁に来た女性が嫁いだ先の墓に入りたくないという人が三分の一でもいるのがわかる,そこに平和がないからこそ血縁を否定したのである。
だからこそ人間の最後はみんな悲劇なのである。
悲しみの中で死ぬのである。それは定められたことである。
この世自体も最後は悲劇で終わる
一個人も悲劇で終わる
家族も悲劇で終わる
人類も悲劇で終わる
それがこの世の定めである
そのあとに神の国が来る
いづれにしろ死ぬとたちまち忘れられる,こんなに早く忘れられることに驚く
誰かその人を思い出すだろうかともなる,それだけ死んだとたんに人間は忘れられるのである。草に埋もれてその墓は誰かもわからなくなる
60年一緒にいてもそれが本当に一緒にいたのかふら定かでなくなる
それだけ人間は家族でも忘れやすいのである。
60年も一緒にいたのにまた現実の生活に追われ忘れるのである。
彼岸だから死者のことを思い出すということで墓参りがあるのはいいことである。
それでこの一文を書いたのである。
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