2018年03月09日

利益だけを金だけを追及していると判断を誤る (でもそれから逃れられない人間)


利益だけを金だけを追及していると判断を誤る

(でもそれから逃れられない人間)

人間の最大の問題は何か?
それは生きる限り利益を追及することから逃れられないことである。
なぜならあらゆるものが会社でもそうだし教育関係でも医療関係でも
利益追及から逃れられないからである。
利益追及ということはあらゆることが金だということに通じている
人間は生涯金から離れられないのである。
地獄の沙汰も金しだいになる
結果的にそれが人間を社会をゆがめることになる

原発事故でもどうして起きたかとなれば金が関係している
政府と東電がかかわり莫大な金が使われた
その金は地元にもばらまかれその金によって原発は実際は地元の人によって積極的に誘致されたということもある
放射能の危険を知らなかったというがその前に金が利益になるからということで危険より利益を金をもらうことを優先したのである。
つまり人間は社会でも利益が優先でありそのために狂わされる
実際に金に狂っているというのが社会である。
金によって人生は狂わされ社会も狂わされている

例えば教育とか医療は金を利益を本来は追及するものではない
でも現代は医者でも医は仁術ではない,医は算術になりいらない薬や無駄な治療をして保険の点数を稼いだりする
それはまた病院側にすれば金を稼げなければいい医者や看護師とかも雇いないしいい機械も用意できないとなれば患者も獲得できないともなるからだ
だからあらゆる分野で金が追及される

それから宗教の分野でも金が利益が追及される,会員をなぜそんなに増やさなければならないのか?それは勢力を拡大して世間に圧力をかけ自分たちの利益を追及するためだともなる
教育でもそもそもなぜ自分たちの団塊の世代は数が多いから競争が激しい
それで受験戦争があった,その勉強はなぜするのか?
教えられることは勉強しなければ立派な人間になることではない
一流大学に入らないと損するからだ利益にならないからだ
出世もできないとか言われる,立派な人間を育てることを目標としていないのである。
知識とはなんのためにあるのか,もう利益のために金をもうけるためにあるとなる
そうしてみんな金に狂わされてまともな議論もできない
早期教育がどうすればいいのかというときそれを推進させるのは塾を経営する人達はそれでビジネスをするためであり金になるからかかわってくる
そういう人達はとてもそうした議論すらできない,まず利益になるということで議論するからである。

芸術だって利益から離れられない,売れないものは何の価値もないとされ芸術家などなんの価値もないとされるのである。
自分がしていることは実際は遊びであり金儲けのためにしていない
プログも無料で提供できるから何か利益のためにしていない
本なら出版社とか書店がかかわりそこでも売れないと困るから売れるものを書けと有名な人でもそうさせられるのである。
そこでゆがめられるのである。何か本当に著者が書きたいことも書けないのである。

広告自体がおかしい,薬とかいろいろな宣伝でもこれが効きますよと言っているのは
金をもらっているからでありその薬が飲み物が効くかどうかそう宣伝している人すらわからないのである。
それは金をもらえるから言っているだけなのである。
こうして金によって狂わされているのが人間であり社会である。
マスコミがおかしいのはそうして会社から宣伝費をもらって成り立っているからである。
そこに公正な報道などない,東電からも何百億円の宣伝費がマスコミに流れていたから
原発の危険をマスコミでは報道しなかったのである。
その利益に目がくらみ判断が誤るのである。マスコミの害はみんなが見ているからそれで今度はみんなの判断も誤ってしまうことなのである。まず重大な事実があっても報道されないことがあるからだ

奇妙なのはチンパージーに遊びを覚えさせたがそこでその遊びをやらせる動機を餌を与えることでやらせようとしたら遊びをやらなくなった
チンパージーは純粋に遊びを楽しんでいたのであり餌のためにししていたのではなかったのである。
芸術は本来遊びの要素が大きい,餌が与えられるから金になるからするというわけではない,評価はされるにしろそれがすべて金でされるものではない
かえって金のためにすると芸術は汚されるとういことがある
芸術とか学問でも宗教でも利益を金を追及してするわけではないからだ

真善美を純粋に追及するものである。真理を追及するときそこに利益追及とは違うのである。
それがすでに幼児からでも小学校からでも利益追及がはじまっている
早期教育によって天才を作るというとき親がそれによって将来利益になるということを考える,それを推進されるのはそれで金ももうけになる,塾関係だとなる
それが必要なのかどうかは議論はそういう利益と関係している人にはできない
利益にかかわらず追及すれば議論もできる
何か利益とかかわり金とかかわるとき議論もゆがめられるのである。
だから原発でもものすごい利益と金がかかわっていたから最初から危険のことなど議論もできなくなっていたのである。
科学的真理とか事実とかあってもそれも利益とか金のためにゆがめられるのである。
だからまともに議論もできないのである。

自然界はチンパージーの例でも純粋であり本当に正直である。
花を見ていればそれが何か利益になるから咲いているのではない
ただ神に与えられた美を示すために咲いている,ただそれだけのことである。
自然に咲いている花でもそれをとって売ろうとすれば利益から花をみているとなるからだ自然界は何かそうして利益のために存在しているのではない
人間社会になるとすべてが利益のために存在するようになる
あらゆるものが利益の追及なのである。
そうはいっても人間ならうまいものを食べたいとか家ももちたいとか車をもちたいとか
いろいろな欲望がありそれが悪いとはいえない,そのためには利益を追及する金をが欲しいということは悪いとは言えない,そのために働いているのだともなる

ただ人間は利益だけから金だけからみていると追及すると判断を誤る
原発でもそうである。まず金ありきからはじまっているから判断を誤ったのである。
銀行にしても投資信託をすすめたのは銀行の利益を優先していすすめる
投資信託は銀行にとってもうかるからであり顧客のためではない
だから株が上がったのに銀行員が投資信託をすすめたのは判断を誤ったともいえる
自分の利益を優先するから銀行の利益を優先したからである。

そういうことは無数に社会ではある,それが日常だともなる
ただ問題はそこで大きな判断の誤りがありとりかえしのつかないことになる
原発事故のようになりもう後でそのことをなにかにや言っても無駄だとなってしまう。
そしてそうした判断の間違いは戦争とかなる何百万人も死ぬとさえなるから怖いのであるもし純粋に真善美を追及していれば誤ることはないのである。
ただそれを追及することは至難の技だとなる
この世で生きることもできないともなってしまうとなる
世の中はそういうものだとしてあきらめて妥協して生きるほかないとなっているからだ
別にそうはいっても正当な報酬で生きている人はいる
仙台からきたユニットバスを作った人は百万だったがガス屋の人はこれは二百万するといっていたからだ,すると別にその仕事はどこも悪いものはない
それだけの仕事をしたのだからそれも安くしてくれたのだから顧客のためになっていたのである。だからすべてこの世の中は利益を追及してもそれが正当な報酬を利益を得て生活している人も普通にいるのである。
でも利益追及のために社会全体がゆがめられていることは言えるのである。

posted by 老鶯 at 11:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題
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