春の日(常磐高速SAのセディティ短歌十首)
(猪苗代より来た人とあう)
鹿狼山(がろうさん)が見える
春の日に来る人あれ遠くよりセディティに我も来たりて迎えぬ
春の日に常磐高速行き交いぬしばし寄りなむ鹿島なるかな
高速に近くに見える鹿狼山春の日に来てセディティ休む
葉牡丹に小さき花の鉢植えをセディティに置き春の日休む
猪苗代まだ雪厚しセディティに春は来るも嘆き帰りぬ
猪苗代真白き雪に染められぬ波打ちひびき磐梯山見ゆ
猪苗代松に雪かな打ち寄せる波のひびきて夕暮れにけり
会津なれなお雪埋もれ遠きかな久しく行かじ旅の日思ふ
社一つ雪にうもれてあわれかな会津の冬の長くありしも
セディティに我がより駅により人の行き交ふ春となるかな
梅開き柚子もなりにき小山田の細き道をし帰りくるかな
一本松切られてなしも右田浜津浪の後に何か残らむ
sedate(セディティ)
sed- 座ること・腰掛けることを表す印欧語根(sit)。語幹sessを持つ語(assess, possessなど)、reside, sessionなどの由来として、座ること、据えること。
この言葉が何なのかわかりにくかった,鎮座するという日本語を機械翻訳したらこの言葉がでてきた
鎮座するというときsed- 座ることだから通じている,鎮静するという意味でもある
セディティというのがなにかなじめない言葉である。意味はいいのだが発音しにくいしてわかりにくいのである。
だから意味はいいとして名付けたのはいいかどうかわからない
ばあちゃんが休んでいたので話しかけた,その人は猪苗代から来ていた
「春になりいいですね、どこから来ました」
「猪苗代だよ,雪で困ったよ,雪は嫌だよ」
「猪苗代はそんなに雪降ったかな」
「猪苗代は雪降るよ,今年は特に降って積もったよ,溶けないよ」
「そうだったかな,ここは雪は降らないけど今年は寒かったよ」
「猪苗代は若松市より降るんだよ」
「若松市より降る,あっちの方が降ると思ったけど・・・」
「猪苗代は会津よりふるんだよ」
「ここは春になると東風(こち)が海から吹いてくる
それで放射性が福島市の方まで流れたんだよ」
「そいうことか,こっちは雪がふらないからいいよ」
今日は東風が吹いていた,それは山側にも吹いていた,これは二月から吹き始め3月になるとさらに吹く,それで原発が爆発したのは3月11日でありその風に乗って福島市まで放射性物質を運んだのである。
だからつくづく不運だったのである。北風だと海の方に風が吹いて海に流されたからである。現実に海側は放射能の汚染度が低いのである。浪江の請戸では原発の煙突が見えても0.5とか低かったのである。山側はどこでも高く飯館村は一番高くなったのである。
それは風向きでそうなったのであり不運だったのである。
駅でいろいろ案内がてら話したが常磐高速のセディティでは話にくい,でも今日あったのは原町の人と相馬市と楢葉の人と猪苗代と仙台と茨城の人とかであった
駅でもそうだがどこから来ているから興味があるからだ
楢葉の人は学生であり仙台にいるという。いろいろな人が交わるのが駅でありSA(サービスエリア)である
猪苗代のように福島県でも地域差がある,ハマ,ナカ,アイヅとあり気候も相当に違うのである。たから福島県は大きすぎて一つとなりにくいのである。
浜通りと阿武隈高原を越えた中通りでも気候は違う,会津はもっと違うのである。
だから猪苗代がそんなに雪が積のかということが意外だったのである。
つまり福島県はそれだけ広いから地理とか気候でもわかりにくいのである。
ただこうして地域差があることが面白いのである。
ちょっとでも話すると何かこうして地域差があり気候が違うんだなとわかる
だから駅でも常磐高速のSAでもそういう地域差がある人と交わると面白いのである。
ただあそこは駅のように話せない,話にくい場である。
でもあそこに行くといろいろの地域の人が交わる場なのである。
ただあそこから鹿島の方に来るかとなるとあまり来ないだろう。
鹿島の一本松は切られた,あれを見に来る人は結構いたのである。
何かあと見るべきものがない,ただ鹿島には道の駅がないからあそこにSAができたことはいいことだった
レストランとかあり食事ができるのもいい,だからあそこに気晴らしに寄るのもいいとなる
とにかくこの辺は本当に変わりすぎた、海側でもそうだしまるで変わってしまったのである。こんなに変わるものかど驚くばかりである。
常磐高速は車社会だから鉄道よりこれで変化した,人の流れが鉄道とくらべものにならないからである。それだけ車社会になったことをここにくれば自分は車はないが実感するのである。