文明は効率を追及してきたAI化機械化である
(効率的でない機械にできないものが見直される)
文明というときいろいろな見方がある,便利さを追及してきた,A地点からB地点に行くのにどれだけ早く行くかを速さを競う,徒歩から馬車とか蒸気機関車から現代の新幹線まで常に速さを競ってきた,それがリニアになるともう極限状態の速さである
距離を空間を狭くしたのである。それが文明の発展だったということは具体的でわかりやすい
それは物流と人間の交流も促進させるから今のグローバル経済になるのは必然だった
第一交通が発達しなければ海外に行くこともできない,船で何カ月もかかるとしたら
できないからだ
文明と共に時間が発明された,時間の感覚は時代によって違う,江戸時代なら現代のように一時間ごととかに分けていない,おおざっぱであり時間の流れはゆったりと感じていた現代は一分一秒刻みで時間が計られるのは効率的に仕事をするためなのである。
時間の効率化が資本主義社会ですすめられた,時は金なりというときそうである。
資本主義というとき時間自体が効率化するように土地でも物を作るのでも効率化する
土地でも効率的に利用して生産をあげることに努力する
文明とはあらゆるものを効率化することである。
それで機械が不可欠であり機械によって効率化を促進する,その前に流れ作業をオートメーション化する,そういう流れ作業は人間がしていた
それはだんだんロボットがするようになる,事務でも知能化したAIがするようになる
人間の労働そのものが実際は効率的ではないからだ
効率というとき中国でコンバインでも麦を刈るのと人間が手作業でしているのではもう千倍との効率になる,それで麦刈りする中国での出稼ぎ労働者が仕事がなくなった
でも機械ではできない,平坦な土地ではない複雑な地形の所は人間でしかできないからしている,それは今は日本でも田植えをしているが田植えをできない所がでてくる
それは田んぼの縁(へり)なのである。そこは人間がしていたのである。
何かしら人間しかできないことは必ずある
経済の原則では経済合理性から効率化とかは自ずと追及される,AI化になると知能も機械化され効率化される,事務でも知的な仕事でも一見機械にできないようでもパターン化したものがありできるものがある
感心したのは翻訳である。これは人間より優れていて機械翻訳で習って外国がを勉強できる,それは効率的だとなる
効率化というとき知的な分野ではパソコンができたとき知的作業は相当に効率化してきたのである。
いちいち紙に原稿用紙に文を書いていたら効率が悪いのである。
自分は悪筆だからワープロを早い時期からはじめていた,それでオワシスの親指シフトを覚えた,ワープロで通信も早い時期からはじめていた
つまり文章を紙に書いていると効率的でないからそうなったのである。
だから人間は何でも効率化を目指しているのである。
しかし効率化はすすめてゆくと人間社会はどうなるのか?
それが問われる,一つの例として無人化した駅でボランティアしたことを書いてきた
JRでも効率化するために人件費を削減するために駅の無人化をすすめているからだ
人間はコストがかかるから効率的ではない,それは資本家がコストを削減するのは効率的でないからである。機械の方が効率的なのである。
それは例えば家事でもそうである。戦前は中流家庭でも女中を二人雇っていた
それだけ労働を必要としていたのである。それが戦後は家電化して家事労働は機械化したから効率化したから女中という仕事はまれになった
戦後まもなくも竈で炭を使ったりして米を炊いていたのである。
それだけで相当に手間だったのである。人手が必要としていたのである
JRでは確かに駅を自動化するためにゲームのように電車の運行がわかるようにしたし別に困らないということはある
JRの経営はまず人へのサービスというのをそもそも極力省くことである
ただ時間どおりに電車を走らすことであり人へのサービスなど考えていないのである。
要するにJRはすべてを機械化して自動化して極力人を減らすことをしている
そこでは人間へのサービスはない,すべて機械化して自動化する
駅で迎えるのはロボットでいいという考えである。そうすれば効率化できるからだ
社会でもそういう考えになる,資本家は人間を雇うと何かとめんどうだからである。
実際に家事で皿二三枚洗ってもらうのにまず金を要求されるしその家族のことやら何からいろいろめんどうなるのである。そもそも人間は機械やロボットのように効率的には絶対に使えないのである。
そのめんどうなのもが人間なのである。皿だけ洗うなら機械の方が楽だとなる
でもこの効率化ということには非効率な人間はいらないとなる,資本家から人間の労働は非効率だからいらない,みんな機械化してAI化して人間を排除しろということになる社会である。
それが人間にとって幸福な社会になるのかどうかはわからない,ただ文明とは何でも効率化なのである。効率的でないものは排除されてゆく
そして最後にSF的悪夢社会が生まれる,AIが人間は最も効率的ではない,排除しろ抹殺しろとかなる
それは別に空想の世界でもなんでもない,現実にこの社会で実行されてきたことだから怖いとなる
ナチスではいかに人を効率的に殺すかということでガス室が発明された,その数には問題があるが戦争になると人間をいかに効率的大量に殺戮するかとなるとき核兵器になる
そういう空恐ろしいことが現実に実行されてきたからである。
一見文明というのは肯定されるがそういう人間にとって恐ろしいものでもあった
鶏でも卵を産む機械にされているがそれも人間に適用されるのである。
いかに効率的に鶏に卵を産むかを考えるからコストを考えてケージで飼い卵を大量生産さけるのである。
それでニワトリは庭の鳥であり庭を歩いているときまさに庭鳥だった,それを見て何かほっとしたのである。
ただいくら機械化AI化しても人間が成すべきことはなるし機械に代われないのである。
逆に機械化できないAI化できないものが価値がでてくる
それは人間にしかできないものであり人間的なものが重んじられる逆説が生まれる
接客行となる職業はAI化しにくいのである。
医療関係や介護であれ人と人とが交流するものはAI化しにくいのである。
情的なものがかかわるのはAI化しにくい,AIには感情をもつことができないからである。AI化してもロボットには感情はもつことはできない
つまりそうすると感情をもっているということが人間的なものなのかとなる
笑ったり悲しんだり喜んだりすることが最も人間的なものなのかとなる
接客業ではそういうことが要求される,物を作るなら他でも事務でもAI化できるが機械化できるが情が必要なものはしにくいからだ
ロボットが愛情をもつことはありえないからである。
だから駅でも病人がきて病院にゆく,そこで話するとき大変ですねとか同情したりする
中学生がきてたまたま金がなくて腹が減ったと言っていたので近くの菓子屋から菓子を買ってあげる,その他自分のしたことは何か駅は自動化しているのだけど電車に乗るにはそれほど困らないようにはしている
でも何かそうした人間的なものが欠けている
ただ駅は自動化して通りすぎるだけの所とも違っていたからである。
人々の出会いと別れの場でもありそういう演出する場でもある
広場としての機能もあった,JRでは駅はただ電車に乗るだけの人を運ぶだけのものとしてしか考えていないのである。
それで障害者から苦情が来たというのもわかる,駅員はコストがかかるから効率的ないから排除するということになったからだ
障害者というのはそもそも効率的でない存在だからである。
それで認知症の人が踏み切りで事故で死んだ、それで電車が遅れて損害を出したから賠償金を払いと高額な金を要求したのである
JRではそこに人を見ていない,人へのサービスというのはないのである。
ただ人を物のように運べばいいとしかないのである。
いづれにしろ人間というのはそもそも効率的なものではない,効率化によって非人間化される,効率的でない所に人間的なものとなり人間味がでてくる
電車でも外の景色を見るとき観光のため一時とまるときがある,それは効率的ではないのだが人間的であり景色を楽しめるとなる
そういうことは人間社会ではいろいろある,それこそ人間が生きることだともなる
効率化をおしすすめると人間はもう生きるのも苦しくなる,それで鬱病が増える
効率化しなければグローバル経済の競争に勝てないとなり人間は効率化のために酷使される
だから文明に反逆することは効率化を拒否することだともなる
文明とはそもそも人間の幸福を追求してきたのもではない,効率化コストを削減する資本家の論理もあるしそれは資本家の富を増大させるということでそうなった
その富は投資家など資本家に蓄積されるだけだとなる,それで世界の何パーセントかの資本家に富が奪われているのである。
格差社会になるのはこうした人間を無視した効率化をすすめるからだともなる
それが人間全体を幸福にすればいいがめそうはなっていないから問題なのである。
おーい雲よ
悠々と
馬鹿に呑気そうじゃないか
何処まで行くんだ
ずっと磐城平の方まで行くんか
山村暮鳥
こういうことが人間的になる,旅でも実際は決められたレールの上を走るだけなのは面白くない,江戸時代のように歩いて道が分かれこの道はどこに行くのかというとき旅がまさに未知(道)への誘いがあり魅惑的になる
そういう旅を自分は自転車でしてきたのである。
日永きやこの道いづこへ分かれ道
阿武隈高原を気ままに自転車で行ったことが思い出される,それは実に恵まれた時だったなぜなら介護十年してそれができなくなったからである。