2008年08月21日

心はレ−ルともに真っ直ぐに福山駅へ


心はレ−ルともに真っ直ぐに福山駅へ

 

私の心は真っ直ぐなレ−ルとともに伸びている

そこに福山の城の駅がある

そこはみちのくからははるかに遠い

しかし私の心はじかにレ−ルとともに伸びている

私の心の中で電車はそこを目指して走ってゆく

その時距離は感じない、障害物は見えない

真っ直ぐなレ−ルが伸びて電車はその駅を目指して走る

春の日、花盛りの福山城は駅になっている

その天守閣に花見の人々、私もそこにいる

次々に栄えた南の国々の城が連なる

距離はなく障害物もなく一直線に福山の駅と結びつく
 
福山駅となるとみちのくからは広島県だから相当な距離である。山あり川ありでありもし歩いて行ったら片道でも一カ月とかの距離である。でも汽車は電車は距離の感覚を無くしたのだ。汽車というと蒸気機関車の感覚がまだあった時代である。電車は通勤電車とかのイメ−ジである。電化してスピ−ド化したものである。この距離感が喪失した感覚は新幹線に一番当てはまる。目的地に一直線に飛行機かロケットのように走ってゆく。電車で相当旅したけどその中で印象に残っているのは福山駅なのである。そこには城があり花盛りの時に訪れた。駅が本当に城のすぐ近くというのは他にない、城が駅になっていると同じである。亘理駅も城の駅を作ったがあそこに城がもともとあったわけではない、城はたいがい駅より離れて作られている。だから駅と城が一体化することはありえないのだ。ここだけが例外的にそうなっていたのである。人間の心は交通によって変わる。近くても交通が不便なら遠いのである。福島県は浜通り、中通り、会津と別れて地理的に隔絶されている。だから一体感がもてないのだ。ただもし浜通り−中通り−会津を横断する鉄道、新幹線のようなものができれば一体感がもてる。浜通りは鉄道で仙台と結ばれているから仙台と一体感をもっているのだ。心の距離と実際の距離は違う、鉄道は技術は物理的な距離をなくしたのだ。それにより旅が過程であること旅することが喪失したのだが距離の感覚がなくすことにより遠くは心の中で真っ直ぐなレ−ルを通じてとなりにあるように結ばれてしまったのである。それが福山駅で象徴されていた。歴史と鉄道がじかに結ばれたことでより効果的なものとなった。そこが現代の近代的駅だったらまた別だったのだ。過去の栄いと今の栄いが結びついたことに意味があったのだ。
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/18227949
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック