大学は名前だけになり大衆化した
(それは団塊の世代から始まっていた-文系大学はいらないのか?)
大東亜帝国以下の大学なので、こんなもんじゃないです。
全国で500弱の大学が該当します。
自分のプログのアクセスを見ると驚くのはこんなに大学があるのかとなる
どこからアクセスしたかわかりにくいけど大学からアクセスするのはわかりやすい
するとこんな大学があったのかと知らない大学が多いのである。
Fランとかなるとそんなに多いのかとなる
何か地方にそうした大学を誘致して活性化を計るために大学を作りすぎたためである。
今日は長崎ウエスレヤン大学とかからアクセスしていた
キリスト教系の小さい大学なのである。
大学とは何なのか今問われている,団塊の世代から大学が大衆化していたのである。
自分の大学は文系でありマンモス大学であり講義を聞く講堂には3千人いたとかなる
これは高校の授業とはまるで違ったものなのである。
今は少人数になっているだろう。高校中学で30人クラスであり恵まれている
団塊の世代は50人くらいが普通だったからである。
そして地方から大学に入る人が多かった,今は有名私立大学は関東圏で70パーセントとかしめているとなるとか変わっている
地方から大学に行ける余裕のある人は少なくなったためである。
関東圏だったら家から通いから金がかからないのである。
地方だったら東京に住むだけで金がかかるからだ
学生運動というときなぜ起きたのか?
それはマンモス化した大学に対する不満があった,学問に身が入らないという不満があり学生運動になり青春のエネルギーを費やしたのである。
青春時代はなんらかでありあまるエネルギーが噴出して爆発するのである。
そして必ず過ちを犯すのが人間としてくりかえされてきたことである。
老人になってその過ちを悔いるのもそうである。
大学というと名前から錯覚しているのである。旧制高校からの帝国大学はまるで違ったものとして私立大学の文系などが生まれたのである。
団塊の世代から大学はそうしたエリートとは違う大衆化した大学となっていたのである。だから何か自分なども大学という名前だけでありその名前で錯覚しているのである。
大学を出たと言ってもほとんど勉強していないのだから大学を出たということにどれだけ意味があるのか?
例えばそこで何かを文系でも研究していたなら別である。そんなことは大学院まで行かないとないのである。
大学でも成城大学とか成蹊大学とか金持ちの行く大学は少人数でかえっていいものだったろう。その学生の数が百倍くらい違っていたからである。
だからその数に圧倒させられる,そんな数がいたことに驚くのである。
数が増えれば大学というっても名ばかりになる,それはすでに団塊の世代からはじまっていたのでありそれがさらに地方に大学は自治体の要請で活性化のために作られたのである最近看護系の学部を設置するのも地方では看護師不足で悩んでいるからである。
大学とは何かというとき戦前の旧制高校の時代とはあまりにも違ってきた,それはすでに戦後の団塊の世代からはじまっていたのである。
大学生の数がふえすぎて価値が低下したのである。
だから一流大学を出ない限り価値がないとなったのである。
むしろ手に職をつけた方が就職するにも世の中をわたるにもいいとなってもいる
大学の教育は役に立たない,特に文系は何のようにもならないとなった
自分は経済学部出ているけど何にも勉強していないから銀行員が来て株のことがわからないのである。
むしろ高卒の人は証券場で働いているから詳しいのである。
債権とか株の相違とか基本的なことがわからないのである。
株式とかが資本主義の中心にあるときそのことすら経済学部出てわからなかったのであるただ経済の分野は広い,哲学でも宗教でも関係しているから自分には本当はあっていたのである。
それにしても資本主義の基本である株式のことすらわからないというのはそれで大学の経済学部を出たと言えるのかとなる
理系と文系の相違は分けることは簡単にはできない
宗教が生まれたのは宗とはむねなることであり全体志向があって宗教が生まれた
だから宗教でも仏教でも医学と関係していたし江戸時代は医は仁術となっていたのである
大学で錯覚しているのは旧制高校の延長として団塊の世代は考えていたふしがある
つまり将来エリートとなり社会を指導する地位にたつことが約束されていたものとしての大学だと錯覚していたのである。
そんなマンモス大学でエリート意識が養われるはずがないのである。
エリート養成は少人数でしかできない,ソクラテスの回りに集まった弟子は数えるほどしかない,キリストでも12人の使途に教えを説いたのである。
講堂で三千人に講義すること自体,それは何なのだろうとなる
すでに授業も成り立たない状態になっていたのである。
だからみんな授業はつまらないとして学生運動で鬱憤を晴らしていた見れるのである。
その後大学を出てみんなが企業戦士となったのも戦前だったら旧制高校なら社会の重要な地位につき指導者になっていた
企業戦士とは会社の一兵卒のように働く人でありみんなが社長になるわけはないのである大量の一兵卒の方が必要とされた時代だったのである。
その人たちが団塊の世代を中心に高度成長時代を築いたのである。
その人たちはエリートではない,高度成長時代に大量生産して消費者となったのである。だから別に大学ではエリートとして社会の指導者としてどうあるべきかなど何にも教えられていない,日本の国をどうすべきかなども論じられないない
なぜならエリートでもなくなっているしそういう志など必要とされなかったからである。そもそも団塊の世代の受験戦争では他者を蹴落としていい大学に入り大企業や公務員になりいい暮らしをしたいということだけをすりこまれたからである。
そこにはエリートだった旧制高校のような矜持は全くなくなっていたのである。
いづれにしろ大衆化した時代というときエリートがいない時代であり何が指針となったかというとただいい暮らしをするしかない,物質的欲望を充たすことしかない
それはカルト宗教団体でもそうである。そこは巨大な欲望の塊りとなり政治化する
日本の戦後はエリートなき大衆社会である。
大衆がリードする社会である。それでマスコミでもその大衆向けに放送する
大衆が主役なのでありそれに答えるためにマスコミがある
パンとサーカスの時代だったのである
大学とは何か高邁な理想を追及するエリート集団を形成することにあったのだろう。
その理想が現実社会から離れていても大学内では理想を追及するとなる
社会の現実はそうでないとしても若いときはそういう純なもの目指すからである。
それに答えるために大学あったともなる
旧制高校とか明治維新の後の侍出身の人達はもともと選ばれた優秀な人達でありその人たちが新しい日本を作ったともなる
その後も旧制高校などのエリート集団が日本には存在したのである。
でも戦後はあらゆるものが大衆化したのである。
高邁なものを追及するものは拒否されて大衆化して堕落したのである。
マスコミがそれを象徴している,そこに本当の知とか何もない
芸能人の馬鹿騒ぎでありそれを見ているのも無知な大衆だとなってしまったからである。
それは日本だけではない世界的なものでありアメリカでもインターネットが発達していても一日十時間以上テレビを見ているというのには驚いた
インターネットを発明して普及しているのにそんなにテレビを見ているのかとなる
そしたらテレビに左右される人が多数だとなる,それで大統領選挙でもテレビを操作すれば勝てるとなり実質トランプ陣営がそれだけの金をテレビ宣伝に使ったとというのもそうなのかとなる
とにかく文系大学がいらないというとき大学が戦前の旧制高校のものとはまるで違ったものとなっていたのである。エリートを養成する場所ではなくなっていた
それは会社の一兵卒になって大量に働く人を大学をランクづけして選ぶことだったのである。もちろん有名大学ならそれは将来の幹部候補生となるからエリートとして選ぶとういことがあるかほとんどは一兵卒として採用されるのである。
だから大学というのは名前だけであり名前を変えないとなにか時代にそぐわないのである大学とついていると何か高校とはまるで違ったエリートのように錯覚するのである。
大学は団塊の世代からすでに大衆化してエリートでもないしその価値は格段に低下していたのである。
特に文系は大学では勉強しないし自分のように経済学部を出ても資本主義の基本の株式すら理解していないのである。
今や大学は名ばかりであり文系の場合どこの大学を出てもそれほど差がない気がする
自らが目的意識があって課題にとりくむことがなければ社会でも全然役に立たない
学問とは何か?それは社会の問題を解決するためにある,例えば今ここで津浪や原発事故で悲惨な状態になった,ではその復興とか解決策はどこにあるのか?
それこそがまさに学問なのである。それは理系が主でも文系も関係している
理系であれ文系であれ総力をあげて解決する策を見いだすことだからである。
それを自分はプログでしてきたのである。
学問とは現実社会がありそこに起きる問題を解決するためにある
それは個々人の問題でもそうである。
ただ学生だと現実社会を知らないから机上の空論になりやすいのである。
でも社会にでると否応なく社会の問題につきあたり解決を求められるのである。
その時大学で勉強していないと答えられない,解決策を見いだせないともなる
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