鳴かぬ蝉庭に葬り晩夏かな
北へ行くバイクの若者残暑かな
すげぇ、こんなに北海道にバイク旅行する人がいない年なんて初めてだ。ガラガラ、混んでる所はパチンコ屋と上りの低速だけだ。不景気すげぇ
http://musubu.sblo.jp/article/18095711.html
こういう情報はインタ−ネット的だよ、今の時点の生々しい報告だから、インタ−ネットの情報は今の時点の報告、リアルタイムの個々人からの報告がある。今まではマスコミしか知ることができないのが個々人からできるようになった。ただ情報が分散してどこに求める情報があるからわからないのが難点だ。六号線で毎日見ていたけど今年は自転車旅行でもバイクの若者も少ない、集団で行くものもあまり見ていない、本当に北海道はすいていた。そして今年は天候不順だ。朝から昼は残暑で暑く次に夕方から曇り雷がなり雨になった。その雨のなかで今プログにアップする文を書いている。
蝉一匹が死んでいた。ひぐらしである。それを庭に葬った。「鳴かぬ蝉庭に葬り晩夏かな」と俳句を作ったときこれはなんの変哲もないつまらないものとみるかもしれない、しかしこの句のできた背景を知らないとそうなる。鳴かぬ蝉とは家族が植物人間化して反応ない、鳴かない蝉になったことなのだ。尿毒症になり脳が麻痺したのかもしれない、目をあくのだかどこを見ているかわからない、反応がないのだ。それでも手とか足を動かすと目があくのである。まるで自動人形のように開く、目を開けるから見ているのかと思うと見えないのか、ただ体がロボットのように反応して目があいているのか、多分そうである。人間は子供でも大人でも誰でも生きている内は蝉のようにうるさく鳴き続ける。しかしそれも意外と短いのだ。ぱったりと鳴かなくなった。ただ無反応ロボットのようになってしまった。それで人間ははかないとつくづく思った。蝉のように騒がしくないてもいくら鳴いても意外と鳴く期間は短いのだ。あとはぱったりと無言の人となってしまった。つまりこの句をこう読む人は誰一人もいない・・・なぜならその背景を知って作ったのは自分一人だからである。そこまで背景を読む人はいないのである。俳句は短いから俳句の作られた背景を読むことが必須である。でなければみんな平凡なものとなってしまわないか?その背景を知らなくては鑑賞もできないのだ。その点このプログは簡単な説明でも延々とできるからいいのである。俳句とか短歌を出してもその背景を知らないと鑑賞できないのだ。
それにしても訪問者が半分に減ったのはなぜだろう?500のときが最高だった、次に300になり急激にさらに半分に減った。ただ不思議なのは訪問者は減ってもペ−ジビュ−は1500から2000とふえた。記事を読む人は多いのだ。これだけのペ−ジを読まれのはやはり中味に興味があり一人が訪問しても10ペ−ジとか読んでいるのだ。興味あるとほかのプログでも記事を多く読む、ただ常に読んでいる人は少ない、50人くらいだったのか?あとは一回アクセスして多くのペ−ジを読んでいるのかもしれない、認知症関係とか読まれやすい、ここでは真剣に悩んで介護のヒントなど得ようとしている人が多いからだ。最近あまり書いていない、認知症の介護から植物人間になったのだから無反応人間になったのだから認知症で苦しめられることはなくなったからだ。楽といえば楽だが淋しいともなる。何らか反応がなくては死んでいると同じだからである。とにかくインタ−ネットはプログでもオレのプログをサイトを読んでくれというのが多い。まず自分を認めてもらいたいというのがプログである。もし認めなかったら対話は成り立たないだろう。あんたのプログつまらないよとか言ったら対話は終わりになるのだ。でもみんながみんな評価できるものではない、インタ−ネットはみんな水平化してしまう、どれがいいのかもわからない、ただどんな人でも発表できるしオレのプログをまず読んでくれからはじまるのだ。しかし本当に読みごたえのある、自分を表現できているものがあるのかとなると少ない、いづれにしろ評価がないのがインタ−ネットであたプログである。ただアクセスが多いものが唯一評価の基準になってしまう。記事が読まれていることは評価されていることだからだ。むずかしい記事でも何度も読まれていると反応があったとなる。でもアクセスないのでも評価されるべきものがある。かえって難解なものは評価されない、でも芸術としては優れている。ここにインタ−ネットの大衆化してしまった表現者で埋まってしまった問題があるのだ。