死亡した都築詠一氏の評論を芭蕉の俳句から検討
(時代性社会性の理解なしで芸術は理解できないことについて)
芭蕉も、俳句だけから俳句を鑑賞しても、芭蕉の俳句の芸術性は理解できない、ことになる。
文学を文学のみから見ては(読んでは)ならないのである。(都築詠一)
芭蕉と一茶とでは生きていた時代も作風もまったく違います。いや「生きていた時代が違うから作風も違う」といったほうが正確でしょうか。
都築詠一氏は芸術についてこういうことをしきりに言っていた,芸術の時代性と社会性である,芭蕉の俳句を理解するのにはその時代と社会を理解しないとできない
ある人の個性はその時代の社会から作られるとなる
西欧の歴史はキリスト教の教会中心に社会が構成されていたから芸術と言ってもその社会の一部として存在したのであり個人の芸術家などありえないのである。
絵画でも建築の一部の装飾のようにあって絵画とか画家という芸術家は存在しないのである。画家が絵画が独立的分野として生まれたのはルネサンス辺りからだろう
レオナルドダビンチとか生まれたからである。
つまりこれまでは建築も音楽も絵画も一体のものとしてあった,ゴシック大聖堂と一体化してバッハのカノンがパイプオルガンとともに荘厳にひびきわたった,建築と音楽は一体化していたのである。
建築にしても音楽や絵でも教会というキリスト教という制約の中でありえた,そこから独立してありえなかったのである。
そういう時代と社会でありその時代と社会を理解できなければ芸術を単体として見ても鑑賞すらできないとなる
でもその時代と社会を理解するのは本当にむずかしい,元禄時代とはどういう時代だったの?まず自分は相馬地方で古い碑とか墓を見てあるっているが元禄とあればこの辺では相当に古いのである。だから元禄の碑は貴重である
ただこれも葛尾村とかに発見したのは意外だった,それから相馬市の松川浦に近い新田村でも元禄と刻まれた碑があった
では相馬地方の相馬藩の元禄時代はどういう時代だったのか?それもわからないが葛尾村にあったというとき新田村にあったとき開拓が開墾が全国的に進んで人口が増大した活気ある時代になっていたことは確かなようだ
それまでは戦国時代がありそうした開墾開拓はされなかったが戦国時代が終わったとき
平和な時代になり日本全国で開墾開拓が進んだ時代であり豊かな層が生まれた時代となり俳句でも商人とかが参加して普及した時代だとなる
それで芭蕉は「奥の細道」で頼ったのはそうした俳諧をしている富裕層,商人の家を頼って旅したのである。
芭蕉のような人はすでに有名になっていて迎えられて俳句の連句の座がもうけられたのである。そういう連句とかの座が行われたのはそういう文化が生まれていたことである。
それは音楽でも貴族のサロンが生まれてそこで室内楽が発達してモーツアルトのような天才の才能が開花したのとにているのである。
涼しさをわが宿にしてねまるなり 芭蕉
清風:鈴木道祐。尾花沢(この時代には「おばねざわ」と呼称していた)の豪商。紅花の流通業や貸し金業で財を成した。島田屋八右衛門とも称する。芭蕉とは旧知の間柄。しばしば江戸と出羽とを往復していて世間の事情に精通していた。芭蕉の評価の高かった門人の一人。 この時39歳。
みちのくの旅でもそうした富裕な門人がいたから旅ができたともなる、第一江戸時代とかでは何かツテがないと旅もしにくいからだ,知人を頼って旅をしていたのである。
時代性というとき平泉の「五月雨に降りのこしてや光堂」という芭蕉が句を作った時代をふりかえると1189年に平泉が頼朝に鎌倉幕府に滅ぼされてから500年も過ぎている
1185源頼朝が全国に守護、地頭(じとう)を置く(名目は源義経を捕縛)
この頃には鎌倉幕府が成立する
1189奥州合戦で奥州藤原氏、源義経、武蔵坊弁慶が滅亡
1318後醍醐天皇が即位する(初代南朝天皇)
1331-09光厳天皇が即位する(初代北朝天皇)
1333鎌倉幕府の滅亡
1333-05-22新田義貞が鎌倉幕府(14代執権北条高時、北条一族)へ攻め込み滅亡させる。
建武の新政 1333–1336
南朝(大覚寺統)初代:後醍醐天皇、奈良の吉野、新田義貞・楠正成・北畠顕家。
北朝(持明院統)初代:光厳天皇、京都、足利尊氏・足利直義・高師直。
南北朝時代 1336–1392
1701元禄赤穂事件 - 忠臣蔵
1702松尾芭蕉の俳諧・紀行文「奥の細道」ができる
鎌倉時代からすでに光厳天皇が即位する(初代北朝天皇)しているからすでに南北朝の時代にさしかかっていた
では時代性をみるとどうして500年もすぎて平泉の栄華をかえりみることができたのかともなる,それは距離の感覚が今と違っていたこともある
果てなる地がみちのくであり平泉だったからだともなる、その前に西行が来て平泉で歌を残している
ゆきふり、あらしはげしく、ことのほかにあれたりけり。いつしか衣川みまほしくてまかり向ひてみけり。河の岸につきて、衣河の城しまはしたることがらようかはりて物を見る心ちしけり。汀凍りてとりわきさえければ
とりわきて 心もしみて 冴えぞわたる 衣河みにきたるけふしも (西行)
平泉堂塔伽藍炎上すその後雪に凍りつくかも(自作)
芭蕉の句は五月雨に残っていた金色堂のことを俳句にしたけど500年すぎたら実感が湧かなくなるだろう。
西行が生きていたときは平泉は栄えていた,でも凍りついた衣川が歌われた
むしろ自分は近いから冬に平泉に行ったけどまさに雪に凍りついていたのである。
みちのくの都の跡と言ってもほとんど何も残っていない,金色堂だけだとなる
そしてさらに元禄の500年前からまた300年以上も過ぎているのである。
凍りつきただ一つ映ゆ金色堂
平泉礎石残りて雪の降る
こんなふうになる,礎石などは残っているから栄えた跡を残していることはいる
ただみちのくとなるとき栄華は炎上してたちまち消えて今も雪に凍りついているとなる
俳句でも当時の時代性,社会を理解して鑑賞することはむずかしい
当時は時代性もあるが地域性もある,地域地域は閉鎖されて別個にあり交流も少ない
元禄時代といっても江戸とみちのくではその差も大きいのである
つまり八百八町の繁華な江戸から平泉に来たからその落差から芭蕉の俳句は生まれた
ききもせず たばしねやまのさくら花 よしののほかに かかるべしとは
とりわきて 心もしみて 冴えぞわたる 衣河みにきたるけふしも 西行
この二つの短歌は対象的だけど平泉を如実に物語っている
そしてその栄華を桜に見たがあとは衣川が凍りついていたのである
ともかく時代性というときその時の社会というときどう見るのかそれには相当なイマジネーションを働かせないとできないのである。
今日は特別寒いし雪もちらちら降ったし今も北風が唸っている
平泉栄華の跡や北風の唸り雪ふり凍りつくかも
こんな感じになる天候だった
都築詠一氏の評論はいろいろ示唆するものがあったが深く検討できなかった
ただ同世代の人でありそれで共感するものがあったことは確かである。
同世代というときすでにバブルの世代とか氷河期世代とか団塊の世代とかあり世代感覚でも十年違うと感覚的に違ってくるのである。
5年違っても時代の変化が激しいときは感覚的に違ってくる
ギブミチョコレートの世代は5年くらいの差があってそうなった
進駐軍が日本にきたとき5才だったらその言葉を覚えていたとなる
自分は子供のとき遊びで兵隊の帽子をかぶって戦争ごっこをしていた
その頃戦争終わったばかりだから戦争ごっこがはやっていたとなる
すでに5年の差で時代性が生まれそれが理解しにくいとなるから百年とかでも歴史はめまぐるしく変わるから時代性とかその社会を理解することは至難なのである。
例えばなぜ雪の中で女性が裸足で雪だるまを作っていたのか、また裸足で真冬の家にいたのか?それもなかなか理解できなくなる,でもネパールの山岳では裸足で歩いているのである。そういうふうにその時代を理解することは至難なのである。
足袋を履かない事が流行っていたのですから、遊女はもちろん、深川芸者や町人のオシャレさん達も足袋を履かなかったそうです。
おしゃれで素足というのも江戸時代が今より寒いというときできるものなのかと今の時代からすれば考えられなくなるからだ
例えば人物でも現代の知性とか代表するような人物が出てくることは確かである。
それがインターネットから出てくるというの時代である。
団塊の世代だと武田邦彦氏などがそういう現代という時代を象徴する人物かもしれない
なぜなら科学者であり文系の知識の洞察も深いからである。
現代は科学なしでありえない,科学の時代というとき科学を知らないものは現代の時代を知り得ないとなるからだ
その象徴として福島の原発事故が起きたからである。これこそ時代を象徴したものだったのである。
そしてその場に生きていたのが自分であったともなる
都築詠一氏が今年死んだがこれも自分にとっては大きなことだった
ただその評論などがまだ深く検討されずに終わった
評論も一つの大きな文学の分野である
評論がむずかしいのはその人より上から見ないと深く理解しないと書けないからである。それで人物の評価とか文学作品でも評価がむずかしくなるのである。
参考にした都築詠一氏の文です
そのままここに文を全部のせたのはどこに書いたのかわからなくなっているからです
リンクできなくなっているからです
それでインターネット上で書いたものが著者が死ぬとどうなるのか?
それも大きな問題として浮上したのが都築詠一氏の死だったのである。
都築詠一氏の全文を参考
刑事たちが歩くということにはどんな効用があるか。それは歩くことで刑事のカンが発達することである。
犯人が辿ったあとを歩くことで、犯人の像ができてくる。犯人の感情がわかってくる。
そうやって認識が創られるとともに、足を使うことによって頭が良くなるという二重構造があるのだ。
つまりカンとは実体的ありかた(歩く)で創ったもので、それは二重構造になっている。
松尾芭蕉も歩きに歩いたから、俳句の認識が創られるとともに、足を使ったころで頭が良くなり、前人未到の俳句を芸術の域にまで高めたのだった。
カントもヘーゲルも歩いたことがプラスになったはずである。
中学生の子が芭蕉を勉強しているという。
私に、どんな句が好きかと尋ねるので、いくつか有名な句を暗唱してみせた。
例えば、
むざんやな 兜の下の キリギリス
夏草や つわものどもが 夢のあと
あかあかと 日はつれなくも 秋の風
とか、いろいろ。そしてなぜこれらが名句なのかも少し解説してやった。
さらに、俳句とは何か、どう発生したかも中学生向けにミニ講義をすることとなった。
そのミニ講義を簡単にここに書いてみる。
そもそも俳句は、王朝貴族のすなる短歌(連歌)を短縮した庶民の文芸である。江戸初期に始まった。俳句も、連歌と同じく、端的には「座の文芸」と呼ばれる。一人で個室に閉じこもって、ひねりだすものではなかった。
座、つまりサロンのような場所で、何人かが集まって歌を詠みあうのである。
ところが最近は、短歌にしろ俳句にしろ、たいていは一人で考えて一人で創って、一人で発表するといった形になっている。座の文芸ではなくなっている。
稀に連歌、連句を試みるグループもあるけれど、それはむしろ珍しい部類に入る。
だからどうだと言えば、社会性が希薄になりがちになる。
座で詠まれるから、それだけで個人で呻吟して創るのではなくて、互いの認識の交流、すなわち社会性を帯びることができてくる。
これは小説家もそうだし、作曲家や絵描きも同じようなことになっている。
絵画の巨匠とされるレオナルド・ダ・ヴィンチを例にすれば、彼は単なる画家が絵を描いたと思っている人がいると思うが、そうではないのだ。
ダ・ヴィンチは周知のように、ルネッサンスを代表する画家であるが、単に芸術家だけだったわけではない。
彼はイタリア・トスカーナ地方から14から16歳の間にフィレンツェへ移り、画家見習いとしヴェロッキョの工房に弟子入りし、ボッティチェッリらと共に修行したとある。
つまり単独で絵の技法を学んだのではなく、多数の人間がいる工房で学んだのである。
ここが現在の美術大学みたいなあり方と違うところである。現在の美大は集団で学んでいても、結局は極私的状態で絵を勝手気ままに(それを個性としょうして)描いているだけだ。
何が違うかといえば、まず認識の形成が社会性を帯びるかどうかである。
ダ・ヴィンチの場合でも、あるいは他の昔の画家でもそうだが、単なる画家が単なる絵を描いたのではない。工房、とあるように原基形態は絵画ではなく、後にダ・ヴィンチの絵画に発展したのであった。
当時の上質の社会性といえば、貴族階級や僧侶らが社会をリードしていたのであり、その彼ら上質な認識を受け取り、あるいは育てられて、芸術家は見事になっていった。
だからダ・ヴィンチの絵、「モナ・リザ」でもそうだけれども、絵画から絵画を見てはいけないのである。ダ・ヴィンチの認識とともに、どんな社会が「モナ・リザ」を描かせたか、ということも見てとらねばならない。
同様に音楽でいえば、ベートーヴェンやモーツアルトの音楽の才だけに酔っていたのでは、彼らの音楽はわかったとは言いがたい。
話を芭蕉に戻せば、だから芭蕉も、俳句だけから俳句を鑑賞しても、芭蕉の俳句の芸術性は理解できない、ことになる。
文学を文学のみから見ては(読んでは)ならないのである。
だから時代性のない芸術はあり得ず、時代性を捉えぬ鑑賞もあり得ない。創造者も鑑賞者も、どれほど時代性、社会性を掴んでいるか、作品から掴めるかで、芸術の質が決まる。
よって、時代性、社会性をいまだ掴めていない小学生や中学生には芭蕉の俳句の良さなどは理解できないものだ。
さはさりながら、冒頭の俳句などは小学生でも理解はできるのであり、そこを社会性とからめて学校の先生が説けるかどうかである。
個性任せでは、とうてい子どもには(大人も)俳句の芸術性は将来の教養の礎にはならない。
冒頭に紹介した俳句などは、有名ではあるが、どれほどの芭蕉の「歴史性」への認識が込められているかを、小学生にには小学生なりに、中学生には中学生なりに説けてこそ、教師という称号を与えてもよかろう。
ここで
刑事たちが歩くということにはどんな効用があるか。それは歩くことで刑事のカンが発達することである。
現場に行って考えろというのは推理ドラマでは良く言っている,現場で感じることとただ頭でイメージするのは違ったものとなる
子規の写生もまさにイメージではない現場をリアルに見たものをそのまま俳句にするということがそうだった,つまり百聞は一見にしかずということがそうなのである。
自分は外国に行ったのは50代だから遅かったのである。
それで外国について書いているとき理論だけであり実感がともなわないからおかしなものとなっていた,はずかいしものとなっていたのである。
要するに実感の世界を時代が違うと得られない,そこにいくらその時代の社会を理解しようとしてもできなくなるのである。
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