冬薔薇五句
(芸術も修行者として真善美を追及する)
塵つかず一輪静か冬薔薇
冬薔薇ことに美し籠もるかな
冬薔薇今日も散らずや石に映ゆ
冬薔薇黄色にほのか赤み帯ぶ
冬薔薇待つ人あれや田舎駅
冬の日や墓を並べてここに終ゆ故郷あわれ我も眠らむ
薔薇は夏の季語であっても春にも咲くし秋にも咲いているし冬にも咲いている
意外と秋の薔薇もおもむきがありいい,冬薔薇はさらに季節で花が凍るような美しさがある,空気が澄んで塵もつかないとなる
芸術は俳句でも似たような類似俳句がある
白菊の目に立て見る塵もなし 芭蕉
これとにているのが塵つかずになる,知らずと覚えていて参考にして俳句は作られる
これまで作った薔薇の句だけをまとめると一つの薔薇の連作の作品となる
ただプログではどこに書いたのかもわからなくなる
だからそれをまとめようとしているのだかめんどうになる
自分はここ何年かも家のあとかたづけに追われている,片づけても片づけても片づかないのである。本を整理して片づけるのも容易ではない,本もなかなか捨てられないのはまた参考にして利用すると思うと捨てられないのである。
いづれにしろ俳句とか芸術でも一つの修行にもなる,芸術にもいろいろあるが本来は身を清めるための修行の要素がある,純な自然を見るには心も純なものを保たなければならないからである。
それは宗教にもなる,でも今の宗教はそういう場ではない,この世ではかえって汚れた場所になっているのだ。
金でも大きな金を賽銭に投げるのは欲深いやつだ
1000円賽銭入れるから神様お願い
2000円,3000円,一万にして福を与えてくれ
宝くじをねらうようにして願いをかける,神様は銀行でもない,利子つけて金を返してくれるわけではない,実はその金は放蕩する宮司とかくだらない人に入っていたのである。
要するにカルト教団でも神社でも人間の欲にまみれたところなのである。
そんなところで宗教を追及しているのは暴力団に入って宗教を追及しているのと変わりないのである。人間の様々な欲望が肥大化して集まる場所が宗教の場になってしまったのである。またそういう人を受け入れるからこそ選挙の票にもつながるのである。
まず人間の欲を否定したら人は集まらないからである。
それで面白いのはやはり大都会の神社が賽銭が多くなるのはまさにねそうである。
人が多いからそれだけ欲望もふくれあがり賽銭が集まるのである。
だから都会の宗教は経済と政治しかないのである。
本来なら山に籠もり節制して身を清め修行するのが宗教だったからである。
今の宗教にはそういうものがほとんど一切ない,ただ欲望の無限の追及しかないのであるそれは神社でも仏教でも同じである。
だからそんなところに行くのは世俗の欲深いやつでありそういう所に交わる人もまた汚れるし汚れているからそういう場に行くのである。
そんなところにもし心を清めるとしたら行かないからである。
賽銭にはこの世の欲がこびりついているのである。
その賽銭もただ今回の富岡八幡神社の事件のように放蕩して消尽されたとなる
そんなところに賽銭を投げる人も同類だともなってしまうのである。
墓を並べて眠る場はやはり因縁深い場だったのか?ふるさとはやはりそうなるのか?
自分もあの墓地に墓に眠るのかともなる
冬の日はやはりしんみりとして墓も鎮まる
毎日自分は自分の家の墓地の前を通っているから供養していることになるのだ
故郷から離れたいと思っていたが故郷は因縁深いから離れられない宿命にもある
ただこの辺では原発事故で避難して故郷さえ失った人が多いのである。
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