2006年11月24日

春の近江路を電車に行く

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春光や近江平野をひた走る

近江とは琵琶湖に近い故名付けられた。なるほどと思った。昔の国の名にはその土地柄にマッチしたものが比較的多い。京都は山城の国と呼ばれていた。京都は山に囲まれた山を背にした土地である。紀伊は木の国であり木津川などから木を運び出し大寺院などを作る
木を切り出したところであった。志摩は志摩の多いところであり確かにその地形は今も変わっていない。美濃はなんだろうかと思ったが私が今回の木曽の山奥深く旅してようやく馬籠に出た時かなたに開けてゆく思いがした。丁度そこからは美濃平野に出るところであったのだ。あのような深い山路から歩いてきた昔の旅人もあそこでほっとしたことは確かである。美しい野に出たのである。これは実感故あそこを歩いてみないと分からないことである。尾張というのもまた開拓された平野のことである。そこは天下を統一した信長の領土であった。人間の歴史はドラマは深くその土地と不可分に結びついている。あたかも神の予定のごとくにである。その物語は土地とともに織り成されている。木曽義仲、竹田信玄の悲劇も一重に山に閉ざされたところに生まれた結果であった。天の時、人の和はあったのだが地の利がなかった。故その野望は天の配剤により達せられなかったのである。

会津の悲劇もまたそうであった。山国は開けることが遅いのである。海に面していない故である。これはいかに優れし人の出ても同じ結果であり天の配剤に逆らうことはできない。地理的に見て尾張は正に日本の臍のようなところに位置している。人間のドラマは人間が先ず操作するのではなく神が操作し定めることがあるのだ。故英雄も奢るべきではない神の力働かずして歴史は動かない。そのことはもし神の力が働けば一個人は何もせずとも歴史は動くということでもある。歴史の動きまるで偶然の積み重ねのごとく見えるが必然の力も大きいのだ。何事かの事件も偶然のように見えて成るべくして成ったとも言えるのである。 

東海道は最初に開けた日本の幹線道路であり今もそうである。日本は川が多い国で知られている。それも急流であり東海道はこの川に行く手を阻まれた。三河とは三つの川の意である。雨の多い日本はまた川留めにあう日が多かった。それ故迂回路として木曽の山中が第二の街道となって行ったと思われる。

さて車窓より見れば一つの形良き山聳えるのを見ゆ。何山かと思って同乗のものに訪ねれば御上山という富士山ににているから近江富士ともいうそうだ。なるほどと思った。とにかく富士山の名のついた山は多い。御上山にも伝説がある。旅とはその土地の謂われを訪ね訪ねてゆくことであった。余りにも今の旅人は早く通り過ぎてゆく。これが新幹線であったら訪ねる間もなく過ぎ去っていってかの山のことも知らなかったあろう。事実新幹線でここを何回も通っていたがかの山を知らなかったのである。休耕田の所々一面にレンゲの花が咲いている。

 
レンゲ畑親しき山や近江富士

思えば我が里のなべかんむり山もいつも見る親しき山である。土地の人には珍しくないものでも旅人には実に新鮮なものとなる。旅の良さはありとあらゆるものちょっとした人の出会いも何か新鮮であり印象に残るものとなる。一時の出会いであるからこそであろう。
旅の目的それは日常からの脱出にあるからである。それなのに同郷の人とと何百人も連なってゆく町民号などは旅にならない。はっきり言って近隣の人にはうんざりしているのである。さてそれから汽車はなおも進み荒々しい高い山が迫ってきた。まことに牛の背のようである。これも初めて知ったのである。後で調べたらそれは確かに伊吹山である。今は田植えの季である。田植えする人が時折見える。黄菖蒲が群生して咲き汽車は次々に初夏の近江路の眩しい景色を後にする。

 
伊吹山背にして田植えや黄菖蒲の畦に映えつつ電車過ぎ行く

電車は一路進み伊吹き山を後にする途中ツツジの咲く駅ありやがて関ガ原にい出る。ここも日本の雌雄を決する一大古戦場である。ここにも様々なドラマがあった。敗れた三成はどこか夏草に埋もれているだろう。今回私の旅も五月にしては雨が多かった。奈良井宿は一日雨に降り込められたが雨も情緒があることを知った。京都辺りは雨にしっとりと濡れて一段と情緒を深める場であった。奇妙なことだが私はテレビで嵐山へ行く京福電車の駅「車折(くるまざき)」に謂われのある石の残っていることを知っていた。そこを折しも雨の日訪ねていった。その時感じたことはそんな古い謂われのある石がこの雨にうたれ又その長い歳月の中で風化してしまわないかということであった。これもまたはるかみちのくから京都まで旅して感じたことなのである。これと同じようなことを芭蕉も感じたのだなぁとつくづく思った。

 雨しとどぬれて残るや旅人の訪ね来たりし車折の石

この関が原も汽車でたちまち通り過ぎた。そこで一句ひねった。

 本陣に大将集い青葉かな

車窓からは尼さぎが見えた。尼さぎは渡り鳥で沖縄にはいつもいる。西表島で水牛とともにいた。それが夏には東北の方でも見かけた。青さぎも渡り鳥である。これは北海道の方にも渡る。 

尼鷺に黄菖蒲映えて汽車の行く


それからようやく名古屋に着いた。名古屋に泊まったのはぼろぼろの安旅館であった。椿町とあり鎮守の森があり椿神社があった。後で分かったのだがそこは旧市街であったようだ。中村区とあり古い街であることは確かである。そこに一軒古本屋があった。そこで古本を一冊買った。詩集であったがなかなかいい詩集でもあった。そこは確かに何とももの淋しい感じがした余り活気が感じられなかった。そんな所で旅情を感じていたのも奇妙であった。その訳は駅の下に巨大迷路のような地下街が広がっていたのである。そこが新町でありこちらは古町になっていたように思う。繁栄は移り大都市は変貌する。地下街が栄えやがて海底街が栄えるようになる。でも古町には古町の良さがある何となく人情的で落ち着くことである。奈良井宿とか妻籠宿などは昔をそっくり復元させて繁栄させるようになったのも皮肉である。旅にしても同じ旅はない時代により違い年令により感じ方も違う
。とにかく沖縄の人は北海道に憧れ逆に北海道の人は沖縄に憧れる。近くには旅情感じられない。最後に夏の夕日に輝く名古屋城の金の鯱を見て帰った

 
青葉の山々一面の青田の中汽車は行き
 名古屋に来たりて夏の日になおも輝き
 金の鯱天守に映えるを見て旅人はさらに
 船に乗り太平洋にい出行くものかも

 (大都会船に後にし夏の海)


こうして今度は船の旅となった。朝海原は眩しく輝き陸が見えた。そして我が故郷も見えるはずであった。操舵室に案内された。レ−ダ−があり丁度回りの水平線までがレ−ダ−内に映っていて船影も映り操縦は自動となっている。私は必死になって望遠鏡で烏浜の辺りを探した。確かに見えるはずだったのである。この船が行くのはいつも海岸から見えた。意外と近いところを行くのである。しかしついに我が故郷の海岸は見出せなかった。そのうち向こうから同じ航路を行く太平洋フェリ−が迫って来た。丁度出会った時一緒に汽笛を鳴らしたそれは夏の海一杯に響きわたった。
 
  夏の海出あいし船の汽笛かな
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