2017年11月14日

南相馬市原町区高平の五輪の塔の謎 (南北朝に由来して西殿は相馬氏の館があった所)


南相馬市原町区高平の五輪の塔の謎

(南北朝に由来して西殿は相馬氏の館があった所)
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相馬氏の系譜

相馬師常(千葉常胤の子)
相馬義胤(相馬師常の子)
相馬胤綱(相馬義胤の子)
相馬胤村(相馬胤綱の子)
相馬胤継(相馬胤綱の子、廃嫡される)
相馬師胤(相馬胤村の子)
相馬胤氏(相馬胤村の子、下総相馬氏)
相馬重胤(相馬師胤の子、陸奥へ下向)
相馬師胤(相馬胤氏の子、下総相馬氏)
相馬親胤(相馬重胤の子)

相馬 重胤(そうま しげたね、 生年不詳 - 延元2年/建武4年(1337年))は、鎌倉時代から南北朝時代の人物。陸奥相馬氏第6代当主。相馬師胤の子。相馬親胤の父

1323年、一族郎党80余騎、寺社、同行を願う百姓らとともに陸奥に下向。太田川沿いに拠点を広げて小高城を築くなど勢力を拡大、陸奥相馬氏の祖となった。鎌倉幕府の滅亡後、建武の新政が成立するとそれに従ったが、のちに足利尊氏が台頭するとそれに味方し、南朝方の千葉氏、下総相馬氏と対立した。子の親胤を尊氏の上京に従わせる一方で、次子の光胤を陸奥の守りにつかせ、自身は斯波家長と共に鎌倉の守備にあたったが、北畠顕家の攻撃を受け戦死した。

●相馬胤村―+―相馬胤氏―――――――相馬師胤
      |(次郎左衛門尉)   (五郎左衛門尉)
      |
        相馬胤顕――――――→岡田氏・泉氏
           |
      +―相馬重胤―――――――相馬胤国―――相馬胤景―――高平胤直
      |(六郎左衛門尉)                 (九郎左衛門尉)
      |
      +―相馬有胤―――――――相馬胤平
      |(十郎)       (六郎左衛門尉)
      |
      +―相馬師胤――――――
      |(次郎左衛門尉)   
      |
奥州相馬氏内でも重胤の従兄・相馬胤平が、おそらく所領争いが原因で南朝方につき、北畠顕家に従って重胤流相馬氏と対立した。胤平は功績によって南朝から「左衛門尉」に任じられている。

@五輪塔は藪の中に埋まっており,由来を知るものがいなかったこと
A共同墓地付近を「左衛門塚」と呼んだこと
B八竜寺の山門礎石といわれる大石があったこと
C八竜寺は有胤の菩提寺であったこと
D有胤の居館が西殿にあったこと
E八竜寺とその所蔵資料が約二百年前に焼失したことが伝わっている

この系譜を見れば次郎とか五郎とか六郎とか九朗とかあり兄弟である。
ここで明らかなことは

A共同墓地付近を「左衛門塚」と呼んだこと

これは間違いなのである。そして高平胤直という人物はこの高平の地名を姓としたのである。重胤が陸奥に下向したからである。

地方の武人の通称に何々左衛門とか右衛門とかなるのは元は皆京に出て禁衛の兵士になったもののしるしで今なら下士官相当の役にすぎぬのだが田舎に帰ると社会上の地位であった(柳田国男全集16)

鎌倉幕府が成立するときにその前は平氏の勢力が強かった,だから胤平などはその平の一字をとったのかまたは高平胤直がいたからその高平の平をとって名前としたかもしれぬ
どちらかというと平氏の姓はとられていないから高平の平をとったのかもしれない。

八竜(龍)神社は多いし鎌倉時代に普及した,だから寺もあったとなる,相馬有胤の菩提寺であったことは高平という姓の人がいることでもわかる
ここに土着して住んだのである。

D有胤の居館が西殿にあったこと

なぜ西殿なのだろうか?

殿館(とのたてさま)の起源

殿は文字のごとく長者の建物に対する敬号である。家号の属する土地である。
建築物を呼んでその中に住んでいる人を直接に呼ぶことを憚った意味である。
すなわち御屋敷ということであります
これが遂に移り変わって直接人の名を郡長殿とか局長殿とかいうように人の名を意味するようになったのは甚だしい変遷であります
南北朝頃の文書に諸国の侍に出した感状などを見ると人の通称に殿の字をつけたものがあらわれかかっている

一例を言えば河野武蔵殿とかなっている,これが奥羽の方へ行くと何の何某館と書いてある、武士の住宅を館というのは東北の方言で西国に行けば京都を私淑して武家も皆殿と呼んだのである。(柳田国男全集20)

高平に西殿とか御屋敷とか古館とかさらに海側に館前とかがある,ここには相馬氏関係の館があった

相馬胤顕――――――→岡田氏・泉氏

泉氏は相馬氏が来る前に存在した土着していた地元の豪族だった,だから西殿から海側の館前までなんらかのつながりがある。
この辺には確かに館がありその館に属して人々が住んでいたのである。

上高平字沢田の白山神社に1基、下高平字堂後の共同墓地内に1基、下高平字川原の氷川(ひかわ)神社南西側に並んで5基の計7基から構成されています。
 川原地内のものに嘉元二年(1304)、応安二年(1369)銘が各1基、堂後地内の1基に嘉元二年の銘が刻まれており、他の無紀年のものも含めていずれも地元産の自然石を利用し、種子(しゅじ)調法が薬研彫りであるという共通した特徴から、追善供養(ついぜんくよう)や逆修(ぎゃくしゅう)などのため、在地の武士や僧侶等の有産者階層により、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて造立されたと考えられます。

鎌倉時代末期から南北朝時代とありちょうどここに相馬有胤-相馬胤平などがここに殿を館を構えた時期なのである。それは相馬氏がここに移住してその信仰ももたらされたとなる,この辺で鎌倉時代のものがあるのはまれだから貴重だとなる 
そしてなぜ西殿なのか?それは東から見て西にあるからとなる,すると西殿とは東から見てそう名付けられたのである。でも東には泉という地名と館前という地名がある。
そこにも人が住んでいたのである。西殿があれば東殿があっても不思議ではないのである

西殿とか御屋敷とか古館とか中世の石塔がある所までは津浪は来ていないのである。
相馬氏と対立勢力が地元にあり泉氏はその一族だった
それは海側の東にあり慶長の津浪で館も流されたのかともなる
慶長津浪は1611年に起きている,その前に泉氏は相馬氏に不満があり牛越城に火を放っているからだ

牛越城で泉氏が人夫徴発のことで不満で館に火を放つ

牛越城の施行は慶長二年(1597)近郷の土豪を夫役に徴発してはじめられた。
中ノ郷の備頭(そなえかしら)泉右衛門政胤(泉館在住)はこの人夫徴発のことで不満があり館に火を放って会津の上杉氏に走る事件があった。

泉氏は進出してきた相馬氏と対立関係にあったのである。西殿とか御屋敷とか古館とか地名が残っている一体,中世の石塔群がある一帯がそうである。
これはかなり後になってからの事件である。1611年に慶長津浪が来たからである。
もし津浪が来たとしたら泉氏の住んでいる場所は海側なのだから被害があった
西殿中心の相馬氏の住んでいる場所は津浪の被害がなかったともなる
何か西殿一帯には相馬氏が勢力をもち対立するものとして泉氏があってもめたとなる
牛越城5年ほどで終わり中村へ城を移したのである。

いづれにしろ高平の柳町の五輪の塔は実に立派であり貫祿がある,それがだから
相馬有胤―相馬胤平の墓だというのもそれなりにイメージできる
まずこんな立派な墓だったらそれだけの名のある人でないと遺せないからである。

ともかく時代がたつと全く忘れられてしまう無情である。

西殿と名のみ遺して忘らるや跡形もなく木枯らしの吹く

あの辺はしょっちゅう自転車で通るから気になる場になっていた,川子の御堂がある所もそうである。買い物に自転車で原町に行く自分のルートになっているからである。
やはりそういう身近な場所には興味をもつのである。
今回は何か遺された史書と辻褄が合う,千葉氏の研究とういサイトから引用した
ここでは著作権違反のことを指摘されたことがあった

そういうことがあるのでまたあるかもしれない,引用に問題がある,ここに書いてありますよというリンクだと問題がないのである。
だから指摘されたらリンク張るだけにすればいいとなる
リンクは許されているからである。
posted by 天華 at 23:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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