2017年11月03日

「消された王権・物部氏の謎」関祐二を読む (伽耶がいかに大和朝廷の前にかかわっていたかがわかる)



「消された王権・物部氏の謎」関祐二を読む

(伽耶がいかに大和朝廷の前にかかわっていたかがわかる)

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●ツノガノアラシトとは   

関裕二氏は「消された王権・物部氏の謎」

「日本書紀」垂仁天皇2年の条に、「一書にいわく」、という形で次のような記述がある。
「額に角有ひたる人、一の船に乗りて、越の国に泊まれり。
彼、そこを名づけて“角鹿”(つぬが)という」

これによると崇神天皇の時代、“額に角を生やした人”が舟にのって「越の国」に着いたという。
その人物に角が生えていたことから、この場所を“角鹿(つぬが)”→“敦賀(つるが)”と呼ぶようになったというのである。

どこからやってきたのかを問うと、「おお加羅国」の皇子で、名は「ツヌガアラシト」であったという。
日本に聖君がいると聞きつけて、こうして帰化しに来た、と語ったことが記録されている。

一説にはこの人物が王子であったところから、王家出身のしるしとして冠をかぶっていたのではないか、
あるいは「ツヌガアラシト」という名称が、“角のある人”と聞こえることから起こったとも言われるが、これは素直に“鬼”と解するべきであろう。
ツヌガアラシト個人だけではなく、「加耶」という国の有り方自体に“鬼”をめぐる問題が隠されていたためである。
 
 
(中略)

「日本書紀」の「ツヌガアラシト」説話の直後には、「アメノヒボコ」なる人物が半島のもう一つの国「新羅」から渡来した話が載せられるが、 (「古事記」の中で「アメノヒボコ」はなぜか「日本書紀」の「ツヌガアラシト」と同一視されている。)
通説でも、加耶皇子「ツヌガアラシト」を神格化したものが新羅の「アメノヒボコ」であるとされている。

紀元節(建国祭)の起源となたった祭りに、(園神の祭りと韓(から)の韓(から)の神の祭りがあってそれぞれの祭神が園神(国の神)大物主神と韓神(伽耶出身の神)少彦名彦神であった
そして第二に「出雲の国造(くにのみやっこ)の神賀詞(かみよごと)」のなかで、出雲を代表とする四柱の神の一つにカヤナルミの名が登場する、カヤナルミは伽耶の姫の意味である、これを全く日本書紀では無視している

任那日本府は鬼の府ではなかったか、物部−蘇我−伽耶−新羅を結ぶ反天皇家、まつろわぬ者どもの思惑と一致するのである

なぜ大物主神は伽耶の女性と結ばれたのか、伽耶の少彦名神≪ツノガノアラシト,天日槍)との間に起きた鉄の利権争いとその後の和解が大きなヒントになっている
伽耶と出雲の和解の証(あかし)として婚姻関係が結ばれた、この和解の申し子が事代主神−蘇我氏が物部、伽耶双方の血を受けた正当な鬼であった

日本建国の成り立ちが複雑なのは朝鮮半島から始まっているからである。朝鮮半島の争いが日本本土にももちこまれたから複雑になっている
ここで抑えておきたいのは大和朝廷が物部−蘇我−伽耶−新羅の連合軍と対立していたことなのである。蝦夷というのは大和朝廷に対立するものであり野蛮人とかではない、蝦夷とエミシは違っている
蝦夷は広範囲に大和朝廷と対立するものの意味であるからだ、その対立は朝鮮半島から始まっているから複雑になったのである。

●須恵器の歴史

日本書紀に雄略朝のとき、百済から新漢陶部高貴渡来したと伝えられる、新羅の王子とされる天日槍(あまのひぼこ)とともに多くの工人が渡来して近江の鏡谷で朝鮮式陶器を焼いたとある
鉄は朝鮮語で〈スエ)とういう、そこで鉄のように固い焼き物であるから「須恵」と呼んだのだろう、いまでも残る須江、陶、末などの地名はその須恵器の生産に深くかかわったのだろう
最近では仙台でも窯跡が見つかっている
窯跡では3基の須恵器専用の窯が発見されている。製品の供給先については明らかではないが、東方約2.5qのところにある郡山遺跡T期官衙(かんが)との関連が推定される。
http://www.sendai-c.ed.jp/~bunkazai/isekidb/k0000000079.html

昔須恵器を作った部落には今でも陶、須恵、末、主衛などの地名が残っている所が多い
また須恵器の窯跡が集落として場所は近くに古墳群や、府中、国分寺のあっことこやすが多く地方文化の中心地だったところと密接な関係があったようである
須恵器は縄文時代の土器とかとは相当に違ったものである。韓国語でスエは鉄のことだから固いものとして使われていた
中国の黒陶という陶器である。だからその技術はエジフトの古王朝時代にもさかのぼるのである。
すでに轆轤を使われていた、エジフトは先進の文明国だったのである。
「轆轤の起源は車の発見とほぼ同時で,車を縦にしたものが轆轤だ」こういうとき技術は必ず転用されることを古代から示していたのである。

考えてみると縄文時代の火炎土器はどうしてあのような文様になったのか?
それは野で火で土をそのまま焼いたからかもしれない、そのとき火が燃え上がるからである。その火を見て焼いたから火炎土器となった
縄文土器は非常に原始的なものだったのである。だから原始の力をそこに感じる
須恵器となると洗練されたものとなる,縄文土器のような荒々しいものはないのである。
陶器の生産の効率の上昇は、出土する陶器の数や種類が前の文化に比べ増大したことにもみられ、鼎や鬲、9宦A高柄杯など、調理器や食器として使われた多様な黒陶・灰陶の陶器が出土している。

陶器のほか、石包丁など石器や骨器などの武器や道具、ヒスイなどの玉なども出土している。龍山文化の後期には青銅器も出現しており、殷代・周代(あるいは殷の前にあったとされる夏代)の青銅器時代に入る過渡期であったと考えられる。
龍山文化の社会に現れた大きな変化は、都市の出現である。初期の住居は竪穴式住居であったが、やがて柱や壁を建てた家屋が出現した。また土を突き固めた城壁や堀が出土しており、特に山西省襄汾県の陶寺郷の南で発見された陝西龍山文化の遺跡・陶寺遺跡(紀元前2500年 - 紀元前1900年)は龍山文化の都市遺跡の中でも最大級のものであった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E5%B1%B1%E6%96%87%E5%8C%96

須恵器は韓国経由で日本に伝わった、そのオリジナルは中国にあるのが普通である。韓国独自のものは少ないと思う、なんでも韓国起源にするけど元をたどれば中国になるのである。
すでに紀元前2000年ころにそういう技術があったことに驚くのである。

●須恵器の窯があった場所が福島県では棚倉と浜通りである

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須恵器の窯跡の分布図(森浩一編)

この地図で須恵器の窯跡があるのは福島県に注意すると浜通りと棚倉である。棚倉は古代にヤマトタケルの伝説がある場所である。

この地に八人の土知朱(つちぐも)が居た。一を黒鷲、二を神衣媛、三を草野灰、四を保保吉灰、五を阿邪尓那媛、六を栲猪、七を神石萱(かむいしかや)、八を狭磯名という。それぞれに一族があり、八ヶ所の岩屋に住んでいた。この八ヶ所は皆、要害の地であった。だから皇命に従わなかった。国造(くにのみやつこ、律令施行以前の時代、朝廷から一国の長官に任ぜられた現地の豪族)の磐城彦(イワキヒコ)が敗走した後は、人々を奪い去る事が止まなかった。景行天皇は日本武尊に命じて土知朱を征伐させた。土知朱は力を合わせて防戦した。また津軽の蝦夷と共謀し、多くの鹿や猪を狩る強弓を石の城柵に連ねて張り、

ここに神石萱(かむいしかや)がいる、これは伽耶に由来するのだろう
それは須恵器の窯跡があるように須恵器の技術を渡来人が伝えたのである。

そして浜通りにも末続駅があり真野地域がある、須恵器が福島県ではこの二か所に伝わった、それは考古学的な発見と残された伝説が一致しているからち信憑性が高いとなる
伝説でも何かしらの事実があって伝えられているからである。
万葉集の真野の草原(かやはら)地域にはほかに唐神堤という地名がありこれは唐は韓なのである。なにかしら仏教がこの辺に伝わり地名化したのである。
地名化することはそれだけ定着して住んだ人がいるということになるのだ

出雲には

唐川という地名、これは韓川であり韓窯神社や新羅系統の韓国伊太神社(いたて)
野だだ時代の自然送風神をまつる都武自(つむじ)神社、フイゴによる送風神を祭る伊布伎神社や剣神を祭る都我利(つがり)神社などなどがある
(古代朝鮮と日本の旅(朴春日))

伊太神社(いたて)というとき伊達氏の由来がここにある、するとこれも渡来系に由来するのかとなる
そして気になるのが都我利(つがり)である、つがはつがるにもなる,京都には津軽という地名もある、このつがはツノガノアラシトにも通じている
これは渡来系に由来するのかもしれない、ただ津川とかなると川のことだから関係ない
不思議なのはつがの地名を集めると何か須恵器のある窯跡と一致するのである。

津賀 (つが) [茨城県鹿嶋市]
都賀 (つが) [千葉県千葉市若葉区]
津荷 (つが) [和歌山県東牟婁郡串本町]
笏賀 (つが) [鳥取県東伯郡三朝町]
津賀 (つが) [高知県高岡郡四万十町]
継鹿尾 (つがお) [愛知県犬山市]
都加賀 (つがか) [島根県飯石郡飯南町]
津賀町 (つがちょう) [三重県鈴鹿市]
都賀西 (つがにし) [島根県邑智郡美郷町]
津金沢 (つがねさわ) [福島県耶麻郡猪苗代町]
津金沢 (つがねざわ) [山形県山形市]
都賀の台 (つがのだい) [千葉県千葉市若葉区]
都賀本郷 (つがほんごう) [島根県邑智郡美郷町]
都賀町家中 (つがまちいえなか) [栃木県栃木市]
都賀町臼久保 (つがまちうすくぼ) [栃木県栃木市]
都賀町大柿 (つがまちおおがき) [栃木県栃木市]
都賀町大橋 (つがまちおおはし) [栃木県栃木市]
都賀町合戦場 (つがまちかっせんば) [栃木県栃木市]
都賀町木 (つがまちき) [栃木県栃木市]
都賀町富張 (つがまちとみはり) [栃木県栃木市]
都賀町原宿 (つがまちはらじゅく) [栃木県栃木市]
都賀町平川 (つがまちひらかわ) [栃木県栃木市]
都賀町深沢 (つがまちふかさわ) [栃木県栃木市]
都賀町升塚 (つがまちますづか) [栃木県栃木市]
都賀行 (つがゆき) [島根県邑智郡川本町]
都賀行 (つがゆき) [島根県邑智郡美郷町]
津軽町 (つがるちょう) [京都府京都市中京区]

なぜこれほど栃木県に多いのか?何か関係があるのか?
福島県の猪苗代は別に須恵器の窯跡とは関係ないだろう
いくつかは渡来系と関係しているのか、京都に津軽町があるのはそうなのか?
これも関連性があるものとしてのせてみた
津軽(つがる)はツノガノアラシトであり出雲の都我利(つがり)神社も同じ系統だろうともかくこうして追求してゆくと真野の草原(かやはら)という万葉集の歌は渡来人と不可分に結びついたものだということが積み重ねたもので限りなく伽耶に近いともなる
伽耶ではないにしろ渡来人が関係していたのである



自分は学者ではないし学問というとき研究となるとやはり研究の仕方がわからない、またはできないのである。勉強も実は勉強の仕方がわかればすすむのである。
今回は今まで買った本をさっと読んでつなぎあわせて書いた
相当に本も集めないと研究はできない,でも本でもある目的をもって読むと頭に入るし活きてくる、漠然と読んでいてはダメなのである。
自分のテーマと万葉集の真野の草原(かやはら)の歌の謎に迫ることでここまで研究してきたのである。一つの目的があるとその線にそった情報を集めるから情報も活きてくるのである。

posted by 老鶯 at 21:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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