2017年10月28日

法律は理由である、いかなることにも理由がある (理由を拒否するものは民主主義を否定している)




法律は理由である、いかなることにも理由がある

(理由を拒否するものは民主主義を否定している)

警察官から職務質問を受けることが
そんなに不愉快ですか?
私も今までに数回、警察官から職務質問を
受けたことはありますが、普通に応じたら
すぐ終わりました。何の不都合もありませんでしたけど。
正当な理由(犯罪に関わっていると疑われる相当な理由)がなければ、そもそも職務質問に応じる義務はない?
小賢しい法律知識を盾に不必要に警察官を
挑発する必要がどこにあるのですか?


この人がいかなる人かわからない、警察官かもしれない、全くこの人は理由そのものもを拒否している
つまり法律も否定している!この人は民主主義社会を否定する人なのである。
小賢しい法律知識を盾に不要に警察官を挑発するのか?
この発言にも強権的な警察の体質が露呈しているのである。

物を売り買いするのでも理由がある、物がリーゾナブルだというときreasonがあるからそれを買う方でも認める人間生活はあらゆるところで理由づけがなされているのである。
この前家の樋を直してもらおうと思って頼んだら高くなるというときそこは危険な場所だから高くなる
そういうことで理由が常にある,鳶職は危険だから給料が高いとなる

人間にはあらゆることに理由がつきまとっているのだ。別に難しいことでなくてもそうである。
金をくれと親に頼むとき何に使うのだなる,その理由も聞かれる
ただ金が欲しいから金をくれということで納得する者は親でもいないのである。
人間社会は一見理由など考えない,そんなめんどうなことを考えたくないとして生活している
だから法律などめんどうなものは関係ないとも思うし必要もないとも思い生活している

ところが法律と関係しなくても人間は理由から逃れることができないようになっている
例えば力があるものは力で押し通すことができるし暴力で通すことができる
なんで俺を殴るんだよとか言ってもお前が気にくわないから殴るんだとなっても力ある者はそれで通る
これが戦争になる時でも通用する,アメリカだったら理由なくても圧倒的な軍事力で戦争して国を破壊できる
それでは世界の人が納得しないので化学兵器をもっているとか難癖つけてイラクを攻撃したのである。

権力をもっていてもそれだけでは攻撃できない,理由が必要になるからである。
警察の危険は権力をもっているから押し通すことができることである。
職務質問でもあやしいと通報されたら駆けつけるという,それは決まりだからという
それを県の公安委員の人も相談したら言っていたのである。
その人はいろいろ親切に説明してくれた、でもあやしいというだけで職務質問する権限がどうしてあるのかが今も疑問なのである。

要するに自分もその理由に納得できないのである。そこに理由がないのである。
あやしいというだけでどうして誰でもその場もわきまえないで職務質問できるのか?
例えば劇場のようなところでみんなが集まるところであやしい人がいると警察に連絡したらその劇場に職務質問にくるのかとなる
その時と場をわきまえないことができなるのか?
それは極端にしろそういうこともあやしいと通報があればかけつけなければならないとはいうのはおかしいのである。
あやしいとあればそのあやしいという理由は聞かないというのも納得いかないのである。
つまりあやしいという理由が欠如しているのである。
だからここでも理由がともかく必要がとなる

与那国島では土地の人に木陰に休んているからあやしいとして警察に連絡されて職務質問された
その理由が木陰に休んでいるからだとなる、それには納得いかないにしろ理由は理由だったのである。
今回は一切その理由がない、ただあやしいというだけでかけつけてきたのである。
この辺では別に職務質問を受けやすい,避難区域になった所で自分は何回も職務質問を受けている
こういう事情だからしょうがないとなる,それも理由なのである。
でも今回はそうした理由がなかったとなる,ただ外部の人が入ってきているのであやしいと地元の人が通報したのか?それも理由にはなるがそれは言わないのである。

そもそも理由に関係なく怪しい通穂あればどこでも関係なく駆けつけると言っていたからである。
警察官らしい人がそんなに職務質問にこだわるのはおかしい、そんなの普通のことであり理屈を言う必要はないとコメントがあった、つまり警察官は職務質問に関しては強制的にどんな人でも場合でも理由もなくできることになっているしそれをやめないのである。
警察の方にしたらそんなことで理由を聞いていると犯罪者を捕まえられないということはある
だから数うちゃ当たるということで強制的に職務質問しているのである。
それが権力でできるのである
別にこのことは警察だけのことではない、人間のすることには必ず理由がありその理由が正当なら納得して認めるというのが法の起源なのだろう。目には目を歯には歯をというときそうである。目がつぶされたら目をつぶすとなる、復讐を正当化する法律だったのである。

ともかく法律とかは特にその理由の正当性がないと認められないのである。
学問自体もみなそうして理系でも理由を求めている、なぜそうなるのかという理由を求めているのである
これは一つの例にすぎない、人間社会のあらゆるところで理由が大事になる
株だってただ奨めて買わない、もうかる理由を言わなければならない
ところが銀行でも投資信託な説明されてもその理由を理解できないということがある
するとその理由知らない頼んだ人が悪いとなるのである。
自己責任になり銀行では責任をとらない、でも株とか投資信託の仕組みをしることはむずかしくて不可能だったのである。とするとそんな理解できないものに手を出すのが悪いとなり自己責任になるのである。

人間社会は特に民主主義社会はこの理由の追求である。一党独裁とか中国のような社会ではいちいち理由を言う必要がない、権力者が理由にこだわらず権力でもって通すことができる社会なのである。
法治国家というとき法で治めるのだから理由が大事になる、理由なしで権力があるからと通る世界になったら法治国家にはなりえないのである。
警察はこの法と深く関係している場である。暴力で治めるのではない、法で治めるとしたらそうなる
だから法を無視する警察を許していればもう法治国家ではないのである。
ただ法律というのはむずかしい、でも日ごろ日常生活で常に理由が追求される、だからそこで考える習慣をもつことが民主主義社会を生きることになる
理屈を嫌がる人がいるけどではささいなことでも子供に金をくれるとかでも理由なしでくれる親はいない
他にも何かしら理由がないと認めないのである。人間の行為には必ず理由がつきまとっている
それを否定できない、それが法治国家となっている故なのである。
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