相馬地方の蝦夷の謎
(渡来人地名は蝦夷と混血したためか?)
原住民族(縄文人)の日本列島へ征服部族(氏族・渡来民族)が次々に流れ込み、勝手に縄張りをして小国家(倭の国々)を作り、やがて武力征服や誓約(うけい)その他の経緯を経て混血を繰り返して「弥生人」が生まれた。
まずは日本海側の北九州、出雲、若狭、能登、新潟に侵入してくるのです。朝鮮半島から船に乗ると自然に漂着するのです。また瀬戸内海にも侵入しています。かれらは弥生式土器を作り、縄文式土器とは大きく異なるものでした
朝鮮半島に侵入して支配者になった鮮卑族は先祖と同じく地上に墓を作るのです。いわゆる古墳です。地上に墓を作るのは鮮卑が遊牧民である名残なのです。遊牧して戻ったときに親の墓が分らなくなったら困るからです。その朝鮮半島の支配者の一族が日本に侵入して古墳時代をつくるのです。その一族の中に天皇の先祖も含まれているのです。
ツガルエミシ、ニギエミシ、アラエミシ、そして毛人とは何者だったのか。
この内、ニギエミシは、ヤマト朝廷に毎年、人材を派遣していたという記録が残っている。親ヤマト朝廷派と言って良い。朝廷派では無いにしても、ツガルエミシも最終的に青森がヤマト朝廷軍に攻められる事なく終わっていることに、何やら怪しげな匂いがして来るhttps://ameblo.jp/emishi-no-mori/entry-11305770006.html
蝦夷とかエミシとかは何者かというとき浜通りからみるとエミシという縄文人が原住民であった,これは間違いない,狩猟とか採集とか漁労の生活だった
地名から何でも結びつけるのは危険だが何か浜通りには渡来人の跡の地名がある
末続などもそうであり陶に通じて須恵器(すえき)などの技術をもたらしたのが渡来人である。渡来人は鉄の生産とかでも技術者だったのである。
それがなぜ地名化したのか?地名化することは一時的に通りすぎるならしない
そこに住み着いたから地名化した,渡来人の一族が住み着いたから末続が地名化したのである。
一説では大和時代、高麗の調使であった伊利之(いしり)の後裔・八坂氏が朝鮮の牛頭(ごず)山に祀る牛頭天王を移したことに始まるともいわれています。また帰化した八坂造(やさかのみやつこ)一族の氏神だった感神院が起源ともいわれているそうです。
八坂神社が浜通りでも全国的にもなぜ多いのか?相馬市にもあり鹿島にもあり原町の渋佐にもあり石神にもあり浜通りをたどれば点々とあるし全国的にも多い
これは渡来人がもたらした神ともされるがスサノオを祭っている
そしてツノガノアラシトというのは韓国から日本海を渡り入ってきた神でありそれは東北沿岸にもその跡を残している
浪江には700年にその跡を記している,それだけ神としてはこの辺では古いのである。
津神社は相馬市の松川浦だとつのみや神社でありツ神社ではない,ツノミヤというときツノはツノガノアラシトなのである。
このツノガノアラシトがツガルのもとでもあった
ツガルエミシ、ニギエミシ、アラエミシ
ツガルエミシのツガルとはツノガノアラシトがなまったものなのである。
ツガルエミシとはツガルとツノガノアラシトとが混血したものなのである。
小高の角部内はツノベウチと言っていた,前に書いたナイではない,これを分析すると
ツノはツノガノアラシトであり部はアイヌ語でペであり川の意味でありウチはヤマトの言葉である。
ただアイヌ語説は疑問があり縄文語だともされる,アイヌ語の起源が縄文語にもなる
ただ注意すべきは
縄文人と渡来人と混血したのが蝦夷(エゾ)である
その上にヤマト民族が入ってきた,それは物部氏などであり桜井古墳などの大古墳を作った,物部氏は渡来人の後に来たともなる
その順序がまちがいやすい,渡来人の侵入は物部氏とかヤマト民族より早いのである。
だからこそ渡来人系の跡が地名でも神社でも残されている
万葉集の真野の草原(かやはら)の歌を解明するときまずこの渡来人のことを理解しなとできない,笠女郎が笠氏の一族でありこれも明確に渡来人であり伽耶国と関係していたのである。
それは吉備王国の系統に属するものであり会津の大塚山古墳の三角神獣鏡をもたらしたのである。
稲荷山鉄剣にカサハヨという人物の名が記されている,カサは明らかに韓国の地名であり今もある,伽耶というのも伽耶が草とか萱に変化したものもある
また萱原とか草原がカイとも発音されていた
カイはアイヌだという説があるがそれが原町の萱浜となるのか?
もとはカイ浜と呼ばれていたらかである。
日本の原住民が縄文人でありそれと最初に混血したのが渡来人でありそのあとに物部氏とかヤマト系統が入り混血したのが蝦夷なのである。蝦夷は大和王権に逆らうものとしてあり広範囲な人々がいたのである。
この地に八人の土知朱(つちぐも)が居た。一を黒鷲、二を神衣媛、三を草野灰、四を保保吉灰、五を阿邪尓那媛、六を栲猪、七を神石萱(かむいしかや)、八を狭磯名という。それぞれに一族があり、八ヶ所の岩屋に住んでいた。この八ヶ所は皆、要害の地であった。だから皇命に従わなかった。国造(くにのみやつこ、律令施行以前の時代、朝廷から一国の長官に任ぜられた現地の豪族)の磐城彦(イワキヒコ)が敗走した後は、人々を奪い去る事が止まなかった。景行天皇は日本武尊に命じて土知朱を征伐させた。土知朱は力を合わせて防戦した。また津軽の蝦夷と共謀し、多くの鹿や猪を狩る強弓を石の城柵に連ねて張り、
黒鷲とかなると狩猟民のトーテムとなり灰とつくのは焼き畑をしていたのか?
神石萱(かむいしかや)とは何者なのか?
カヤは伽耶国に由来して伽耶一族が住んだのかもしれない,縄文人と混血してそういう名がついたのかもしれない。加差披余(かさはよ)もそうである,渡来人の笠一族と混血してハヨという縄文人なのか名前がついたのである。
多くの鹿や猪を狩る強弓を石の城柵に連ねて・・・とは縄文人が狩猟民だったからであるここに津軽の蝦夷と共謀してとあるのか?
それはツガルは遠いにしても東北地方が一つの国として意識されていたのか?
蝦夷とは東北民を形成していたのか?その根底には渡来人がいて縄文人と一体化して結ばれていたともなる,なぜならツノガノアラシトがツガルのなまったものであり東北に深く鉄の生産などで関係していたらかである。
アイヌが東北でどういうふうに関係していたかは謎であり解明されていない
ただ縄文人と渡来人が混血したことは間違いないのである。
蝦夷がなぜ大和王権にとって強敵になったかというとそうした縄文人だけではない,渡来人とか技術をもった人達やあとは物部氏などが関係したから手ごわいものとなったのである。