震災6年後にもどった故郷の景色
(ふるさとの秋(詩)
ふるさとの小径を行きて
我が足元に野菊の花咲く
野に黄金の実り
今一しきり蝉の鳴きにつ
夕べ鷺の群れ大空を
悠々と大気を吸いて
翔りつつ巣に帰りぬ
川の面に写る秋の雲
流るるもなくとどまり
鴨数羽むつみ離れじ
我一人旧き家に帰りぬ
ここに住む日も長しも
我がはらからのみな死にぬ
悲しかな世の無常身にしむ
ただ思い出のここにあるかな
歳月の過ぎるは早しも
同じ歳逝く人の帰らじ
夜こめて虫の音聞きつ
訪う人もなく月ののぞき
広き間に一人眠りにつきぬ
み空に星影清くきらめきて
地は遠く離りて安らぎぬ
穏やかにその放つ光よ
まことに神のそこにあれかし
死者は今は霊となり
天にそ輝き憂いなからむ
復興というとき田舎の場合,自然が関係していた,都会だったら自然は関係していない,最初に田んぼが増えたとき蛙が盛んに鳴いた,それは去年だった
その時もその鳴き声に復興を感じた
今年は鷺が増えたことである,大空を群れなして飛ぶ鷺の姿に感動した
前は一羽くらい飛んでいたが今は群れなして飛んでゆく
それがなんとも気持ちいいのである。
そういう姿を6年は見ていなかったからだ
そして川岸の竹藪に50羽くらいが帰って眠る,それもこの辺の自然が復興したことなのである。つまり田んぼが増えたそれだけの餌が蛙でも増えたからである。
田舎はそもそもだから田んぼとか畑がない田舎が考えられなかった
そういう景色は見慣れたものであり単なる景色というより原風景である
だから一旦荒野化したときこれは何のだろうと見た
今でも津浪の跡とか田んぼでも荒野化している所はある
でも50羽も鷺がいるということはここに餌があり自然が回復したとなる
田んぼとか畑とかはそれは人間が自然に手を加えたものでもやはり自然の延長としてあるだからそこに蛙がすみ水生動物がすみそれを餌とするものが棲むようになる
ただ鹿島だと新築の家が何百軒と建ち増えたから何か都会化したなと思う
でもやはり田んぼが広がり畑があるのは田舎なのである。
小高とか浪江とか他の原発避難区域とか津浪の後に回復しない土地は蛙でも鷺でも帰ってこない,ただ一時湿原化して沼とかがあちらこちらにできた
それで日本にはともかく沼という地名が多いのはそうした原初の状態があったからだ
そこにトンボとか一時水生動物が住みついたのである。
トンボは水辺で繁殖するからである。
何か赤とんぼある場所で増えた,それは湿原化して沼地が生まれたらだろう。
ともかく田舎の風景は長い間に千年とかで作られた風景なのである。
それが原野化して湿原化した,それも逆に原初の状態にもどったのだから
自然の回復だったのである。だからそこには美も生まれたのである。
これを言うとまたここで被害にあい死んだ人がいるんだとしかる人がいる
それでも自然は都会とは違って美を作り出すのだと思った
湿原は原初の状態であり釧路湿原のようになる
防波堤かできたがもしそれがなければ自然の回復だったのである。
一方で稲の実りがあるのも元の景色の回復である。それは景色だけではない,
生活の基盤としてある米をとれるさとの回復である。
この辺の米は原料米とかで家畜の飼料になっているのは残念だろう。
でも一応田んぼとか畑が回復することは自然の回復でもあった
この詩はまさに田んぼとか畑とかが回復して鷺が帰り元の故郷の秋になったからできたとなる
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