「心に青雲」の都築詠一氏が誉めていた光厳天皇の跡をたどる
光厳天皇の御歌
夕日さす落葉がうへに時雨過ぎて庭にみだるる浮雲のかげ(風雅730)
冬歌の中に
さむからし民のわらやを思ふにはふすまの中の我もはづかし(風雅880)
ただしきをうけつたふべき跡にしもうたてもまよふ敷島の道(御集)
地図を見ると常照皇寺と鞍馬寺と大原が山中にある,都築氏は鞍馬寺と常照皇寺を訪れている,その時自分はそのフログを読んで感想を書いた
インターネットで調べたら常照皇寺のことはでている,写真もでている,それでイメージして自分も短歌を作った。
都築氏は風雅和歌集を評価していた,写生の歌でありリアリティがあると評価していた
ただ写生俳句の創始者の正岡子規は評価していない,というよりそこまで手がまわらなかったともなる,自分は写生俳句から写生の短歌を基にして創作してきた
だからそこを見ていたとは相当に深い見方をしていたなと感心していたのである。
インターネット上には文芸分野では深いものが見られないからそこに注目していたのである。ただ評論としては未完成に終わってしまったのが残念だった
「光厳天皇論」は圧巻だったしそのログは残っている
夕日さす落葉がうへに時雨過ぎて庭にみだるる浮雲のかげ(風雅730)
晩年に常照皇寺で作ったものだろう,これはまさに光厳天皇の心境そのものだった
南北朝争乱に翻弄された一生だったからである。
南北朝は全国に深い傷痕を残した,この辺でも自分の住んでいる場所が霊山城が南朝の城であり炎上して逃れてきた落ち武者が先祖になっている,南相馬市には鹿島区には只野という姓が本当に多い,その只野は郡山の多田野村から発していたのだ
それが南朝に加わり霊山城が炎上してきたとき逃れてきた,それは今も祭りとなって残っているのである。
ただ光厳天皇は北朝であり都築氏は北朝に義があるとして醍醐天皇を批判していた。
日本を争乱に導いたものとして糾弾していた。
そして光厳天皇を高く評価していた,それは昭和天皇と比べて高く評価していた。
昭和天皇はいろいろと蓄財していたとか辛辣にこきおろしていた
右なのに天皇をそんなに批判するのかということで驚いていた
光厳天皇は自ら反省して僧になり乞食までしたと評価していた
昭和天皇は何の責任もとらない,日本国を利用した国賊のような扱い方になっていた
それもやはり現人神(あらひとかみ)から人間宣言などとアメリカ軍に占領されて
全国を行脚して国民に迎えられたがそれも何か責任をとらないしずるいと見ていたのである。それで光厳天皇が反省した態度にひかれた
最後は常照皇寺にこもり果てた,その寺実に質素なのである。それもまた評価している
ただしきをうけつたふべき跡にしもうたてもまよふ敷島の道(御集)
最後まで正しき道を求めたのが南北朝の戦乱で最後まで迷っていたとなる
南北朝とは何の争いだったのかわかる人はいるのかとなる
さむからし民のわらやを思ふにはふすまの中の我もはづかし(風雅880)
この歌も評価していたのは昭和天皇などと雲泥の相違がある。
昭和天皇でも今の天皇でも民を思う心などない,震災で慰めにきて帰れば贅沢な暮らしがあるだけだと言って批判していた。
だからこそ光厳天皇は天皇の中でまれな存在として評価していたのである。
天皇の寺の石段雪ふりて誰かたずねむ山深きかな(自作)
写真がここに
常照皇寺
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