2017年09月23日

オオカミ絵のお札、版木 飯舘の個人宅で複数発見 (佐須は焼き畑で地名で狼は害獣から防ぐから神となった)


オオカミ絵のお札、版木 飯舘の個人宅で複数発見


(佐須は焼き畑で地名で狼は害獣から防ぐから神となった)


縄文人は、クルミや木の実中心の生活でした。その後、焼畑という農業が伝わるようになってヒエ、アワなどの他に、ソバや大豆などが作られることになります。秩父や長野県、山形県などの地域で蕎麦作りが盛んなのは、焼畑農業の歴史があるからです。

福島県虎捕山は、サス山とも言います。サスとは、焼畑という意味です。ここでも、別の豪族によって追われている阿部家の子孫といわれる人が住んでいた所です。(山津見神社がある佐須)


真神(まかみ)は、日本に生息していた狼(ニホンオオカミ)が神格化したもの。大口真神(おおくちのまがみ、おおぐちまかみ)、御神犬とも呼ばれる。
真神は古来より聖獣として崇拝された。大和国(現在の奈良県)にある飛鳥の真神原の老狼は、大勢の人間を食べてきたため、その獰猛さから神格化され[1]、猪や鹿から作物を守護するものとされた。
『万葉集』巻八には「大口の まかみの原に ふる雪は いたくなふりそ 家もあらなくに」(舎人娘子)

間地の耕作は「焼畑」が中心。そのため、イノシシの害にはほとほと手を焼いていました。イノシシの侵入を防ぐために、山林と耕地との境に猪垣(ししがき)を築いたり猪堀(いぼり、ししぼり)を掘ったりしたのだそうです

日本人と狼 



飯館村の佐須村は焼き畑のことである。他に比曽(ヒソ)もそうであり飯館村は森が深くあれだけの広さがあるから焼畑としては適地だったのである。
飯館村に人が住んだのは古い,縄文時代からでありそれだけ森の幸,山の幸があった
佐須というと大倉からさらに奥地だかちいかにも焼き畑に適していた土地だった
焼き畑農業はこれも渡来人がもたらしたものだといわれる,稲作の前に焼き畑農業が行われていた。鎌倉時代にも行われていた,山間では必ず焼き畑が行われていた。

山林を切り払って焼き、その灰を肥料に雑穀や豆、イモ類などを栽培する
焼き畑が普及したのは稲作などより簡単だからである。農業には肥料が欠かせないのである。その肥料で苦労しているし害獣でも苦労している
畑は常にキジに食われたとか虫がついたとかともかく常に被害がある
だからなんとかしてくれとなるとき狼がイノシシとか鹿の害から防いでくれるとなり狼は大神になったのである。
狼はイノシシ,シカ,サルなどの害獣を襲い撃退してくれるからありがたいものとなった
日本はまず縄文時代がありその時は森の中の木の実とか採集狩猟時代であり焼き畑をしていない,十五夜に芋とかを供物にしているのは焼き畑でとれたものを捧げていたのである太陽信仰に天照大神の信仰になったのは稲作がはじまってからである。
それまでは月の信仰だったのである,月読み神の信仰だったのである。
歴も陰暦であり月の満ち欠けで決めていたのである。

焼き畑になったとき芋類とか食べられるとなると相当に栄養が良くなった,芋は常食にもなり栄養豊かだからだ,すると養える人口も増えたとなる
鎌倉時代あたりまでは相当に焼き畑が行われていた,それからだんだん少なくなり地名だけ残ったのである。焼き畑地名は日本全国で非常に多いのはそれだけ焼畑が行われていた証拠なのなのである。
飯館村の場合はそこが焼畑をしていたということがイメージしやすいのである。

飯館村は焼き畑をしていたがその後稲作をするようになった,でも高原であり寒い地域だから稲作に適せず天候不良で飢饉になった,夏でも高原だから涼しいのだが稲作はもともと南国向きであり寒いところには適さないものがあった
焼き畑農業と稲作農業もその生活形態はまるで違う,それは蝦夷が狩猟,採集,漁労の生活であり稲作はヤマト王権によりもたらされたものなのである。
そういう生活の相違が実際は江戸時代から明治以降までつづいていてふ柳田国男の遠野物語の山民が存続しつづけた伝説となった

何か神社は場所と密接に結びついたものがある。佐須は奥深い地域でありそこに神社があることがふさわしいのである。
日本人の生活がもともと自給自足だったというときやはり最低限の食料がまかなわれたということがあるだろう。それは日本だけではないどこでも山の民でもそこで生活できる糧があって自給自足できるのである。
佐須では畑の中に「乳神」の碑があった,それが印象的だったのはまず乳が出なかったら子供が育てられない時代があった,ただ飯館村で牛を飼うようになったのは戦後とかであり新しいのである。だから乳がでなければ子供は育てられないのである。
それは江戸時代でも同じである,それで乳神に祈るしかないとなっていたのである。

飯館村は歴史は新しいようで古いのである。縄文時代からはじまって焼き畑時代があり
稲作時代となっている,それは日本のたどった歴史である。
日本では全く未開の地はまれだろう。たいだい早い時期から人が入っている

「多胡の入野」も、早く『万葉集』の東歌に見えながらもその後詠まれることが極めて稀であったものだが、まずはその『万葉集』所載の1首を挙げてみよう。

吾が恋はまさかもかなし草枕多胡の入野のおくもかなしも[万葉集3421]

野とつくのは傾斜地であり焼畑であった。小林のコバも焼畑地名だった。焼畑に由来するものが多いのだ。鹿野というのもそうでありカノはノがついているから焼畑なのだ。ノは焼畑なのである。山の神である、名はオホヤマツミ神を生み、次に野の神である、名はカヤノヒメ神を生んだ。またの名はノヅチ神と言う ... 山の神の次にカヤノヒメ神を生んだのはまさに最初に山の神があり狩猟中心の世界があり次に焼畑に写った。この生業の変化がどのようにもたらされたか、焼畑は狩猟採集より発達した文明の段階になるからこの技術が渡来人によってもたらされたかもしれない、これも稲作と同じように定期的に収穫が得られるから権力基盤をもち地方の国造、毛野王国などを各地に作ったのだ。その毛野王国のなかに渡来人が入ってきて焼畑の技術をが入ってきたのかもしれないそれが万葉集の入野の歌だった。東和町の白髭は高麗(こま)からきている。この白髭は各地に多数ある白髭は新羅であり毛野に新羅人が入植したのだ。

これは前に自分が考察したものである。焼き畑地名が多いし稲作の前は焼き畑文明だったから当然だとなる
佐須という地域はこの入野にふさわしいのである。おくかもかなし・・・というとき山間の奥地で焼畑が行われていたのである。そこには恋しい人が住んでいたとなる
佐須という場はそういう場所にふさわしいことは実際にそこを訊ねればほかる。

いづれにしろ今回の狼の札の発見は他でもあり狼信仰が焼き畑とともに生まれたことの証拠である。例えば飯野(いいの)なども焼き畑が行われた地域なのである。
野は傾斜地であり焼き畑が行われた日本独自の地形を示す語なのである。
原とかとは朝鮮語系統から渡来人系統から入ったものであり別個の言葉なのである。
それは焼き畑に由来している,原というときモンゴルのような草原をイメージする
野となると日本的な風景から生まれた言葉なのである。

posted by 老鶯 at 20:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村
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