2017年09月20日

「心に青雲」の都築詠一氏の死亡で生じた著作権の問題 (確立していないインターネットのルール)


「心に青雲」の都築詠一氏の死亡で生じた著作権の問題

(確立していないインターネットのルール)

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著作権は、通常の財産と同様に相続の対象となります。遺言によって誰かに譲り渡すこと(遺贈)も可能です。本コラム執筆時点までの報道によれば、やなせさんには法定相続人はいないようですが、遺言により受取人を指定していれば、指定された法人や個人が著作権を引き継ぐことになります。

著作権について複数の相続人がいる場合は、著作権は共有されることになります。著作権が共有されている場合、共有著作権者全員の同意がなければ著作権を行使することができません(法65条2項)。対象となる著作物の著作者(=著作権者)の死後、著作権保護期間中に著作物の利用を希望する人は、原則として全相続人から許諾を得る必要があることになります

著作権者が死亡し、通常の財産であれば国庫に帰属することになる場合、著作権はなんと消滅してしまうのです(法62条1項)。「著作権が消滅する」ということは、誰もその作品が使えなくなるという意味ではありません。著作権の保護期間が満了した状態と同様に、誰もがその作品を自由に使えるようになるのです

著作者の名誉・声望を害するような方法での利用は著作権法で禁じられているということは、心に留めておいてほしいと思います

「目的上正当な範囲内」の引用であることが求められている(32条)。ここから派生して、「人の作品を借りて来るだけのある程度の必然性・関連性が問われる」と説明されることもある。


本は出版社が仲介として大きな役割を果たしていた,出版社を通じてしか本は出せない仕組みになっていた,その前に取り次ぎを通さないとまた出版できない仕組みになっていたインターネットはそうした仲介者が省かれているのだ

そこで何が起きてくるのか?今回のようなプログだけに書き続けた都築詠一の死亡がなげかけた問題である。
グーグルですべてではないがログは保管されていたのである。
これも不思議なのだけど普通は本だったら図書館とか出版社で保管されている
でも本を出すことはむずかしいのでどこにも保管されていない場合だってあるのだ
ところがインターネットでは誰でも一庶民でも何でもくだらないものでもとるにたらないものまで出せるし記録されているのである。
なぜならインターネットでは記録するということは簡単だからである。
そしていくらでもその記録を残すことができる,本のようにもう国会図書館で収蔵しきれなくなるということはない,物理的に場所を全くとらないから無制限に貯蔵できるのである。
ではそれがどれくらいの期間記録されているかとなるとわからない,本なら50年くらいはもつかもしれないがその頃からぼろぼろになってくるのである。
電子空間では50年ももつのかとなるとわからない,電子空間は消えやすい弱点ももっているからである。

ともかくインターネット上にだけ公表されて本としては出版されないものがこれからは増えてくる,出版というのはハードルが高いからである。
インターネットだと気楽にいくらでも書ける,一人の人間が出版社ともなれるテレビ局ともなれるのである。youtubeがそうである。
かえって例えば武田邦彦氏はそうした放送局となっている,科学者として専門性があるから参考になる,テレビだと専門家を呼んでテレビ局の意向によって編集しているからかたよっているのである。テレビはその局の意向を報道しているのであり専門家はただテレビ局の意向のために使われているだけなのである。
だから最近はなるべくテレビは見ないようにしている
テレビを見ていると知らずに洗脳されていることが多いからである。

いづれにしろインターネットでは例えは都築詠一氏が死んでも著作権はあり全文転載はできない,心に青雲の旧フログが一部ログを他のサイトで保存されていたが許可があってできていた,なぜ全文転載ができないかというと宣伝に使われたりするからである。
引用は可能である。それも引用する方が主になり引用される方がその主文に従属するような文でないとできないのである。
なぜなら引用とはあくまでも主なる引用する人の創作の中で利用されるものとして許されているからである。

ただ都築詠一氏のプログの文を本に出すとなると著作権を受け継いだ家族の人とかの許可が必要になるだろう。
でも不思議なのは別に本にならなくてもグーグル内にログは全部ではないが保存されているのである。それは一種の図書館に本として貯蔵されていると同じなのである。
ただそれがいつまで保存されているかとなるとわからないのである。
グーグルというのはこうして何か実際は大きな権利を得ているともなる
まず国会図書館にいくちら貴重な資料があったとしても利用できないものが多い
図書館でも資料があってもそれを調べるのが容易でないから今は行っていない
自宅で調べて書けるようにならないと知的作業はできない
だからある程度の私設図書館が必要になってくるのである。

ともかくインターネットもすでに20年以上とか利用するようになっているしこれからも利用されるようになる,それは世界ともかかわりそのルールが確立されていない
そこに今回のような都築詠一氏の死亡などで問題が浮き彫りにされたのである。
死んだら死んだ人は何も言えないのである。
すると何かそこで問題が起きてくる,ただ何か今も死んだように思えない不思議があるのだ。
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