2017年09月17日

死から偲ぶ俳句と短歌 (心に青雲の都築詠一氏を偲びて・・・) 死から偲ぶ俳句と短歌 (心に青雲の都築詠一氏を偲びて・・・)


死から偲ぶ俳句と短歌

(心に青雲の都築詠一氏を偲びて・・・)



空に伸ぶ竹や秋風にそよぎゆる

ふるさとや夕日のさして実りかな

虫の音の今日は聞こえず夜のふけぬ



「 空蝉の すがれる庵の はしらかな 」 川端茅舎


壮年のわがうつしみは若やぎつついつよりそ死を育みいしは

刻(とき)はいま黄金(きん)の重みよ惜しむべきかな妻に子にしたたりて

上田三四二


「心に青雲」のプログの著者の都築詠一氏の死は衝撃だった,直接かかわったわけでもないし相手自分に関心は全然なかった,ただもしかしたら一〇年くらいも毎日読んでいたのかとなる,とするとその影響はやはり知らず受けていたことになる
相当に人間としても文学関係でも造詣が深くハイレベルの人だった
だから近づきがたいとなる,陰謀論になると特にそうだった

インターネットは何かレベルが低いということがあるし言葉の遊びとか匿名でいい加減なものが多いとか無責任でその場限りの発言で終わるとかある
だから言葉の重みが伝わらないし発言する責任も薄い
誰でも発言できるのだがそれだけ大衆化して低レベルにもなっている

ただではマスコミとかその他が高レベルかとなるとそうでもなくなっている
芥川賞などは出版社が売るために企画されているから低レベルになった
ただ本になるとやはりレベルが一定の高さにあるとみる
都築詠一が死んでも空手関係では暴言を今も吐いている
その人たちは空手には通じていても文学関係など何も知らないとなるからだ

ともかく何か文学関係などは俳句とか短歌でも低レベルなのである。
ただ歴史関係,古代史などは密度が相当に濃いから参考になった
その他で参考にするものが少ない感じがする

俳句とか短歌は短いから鑑賞する方が相当によみこまないと鑑賞できない
その人の鑑賞の仕方によって価値が生れる文学だと思う
読みを深くするというとき死というのは人間にとって最大の変化である。
その死からみるとき物事でも俳句や短歌でも平凡なものでも平凡なものでなくなるのだ。

都築詠一氏が死んでそのことを感じたのである。

空に伸ぶ竹や秋風にそよぎゆる

これは今までなら単なるそれだけの俳句とかなる,でもこれを都築氏の死から読むと「心に青雲」はそうしてまっすぐな竹が空に伸びるという感覚になる
そういうものが文章から感じられた

ふるさとや夕日のさして実りかな

都築氏は人工透析をはじめてからプログをかきはじめた,二〇〇二年でありそして二〇一七年に死んだ,それも長いなと感じた,透析もやはり闘病だったのだろう。
ただ闘病しているという感覚はプログにはなかった
それはすでに晩年のことであり遅かったとなる,現代は長生きだから実りとなるのはそうして遅くなる傾向がある
実りに夕日がさしているというのも自分と重ねて見ているのである。

虫の音の今日は聞こえず夜のふけぬ

虫が今は盛んに鳴いているけど今日は聞こえなかったなというときプログをあんなに盛んに書いていたのに中断してしまい死んでしまったとなる
それはやはり一人の人間の死から感じたものである。

「 空蝉の すがれる庵の はしらかな 」 川端茅舎

この俳句はたまたまインターネットで発見したが深い俳句だなと思った

空蝉(うつせみ)は蝉の殻でありそれが柱にすがっている,それがなんとも不思議である。それは一つの命を象徴して人間と重ね合わせる

例えば柱というとき一家の柱とかいう,空蝉はその柱にすがり死んでいたのである。
柱は残っているのである。
俳句は短いから相当に読みを深くしないと鑑賞できないのである。
死から人間でも事物でもなんでも見ると深いものになる

壮年のわがうつしみは若やぎつついつよりそ死を育みいしは

上田三四二

この人は四〇代で死んだからしきりに死と病気のことを語っていた

壮年になってわかやぐ老人になって若やぐということもある
都築氏のプログの発言にはそうした若やぎがあった,ただ死はその時育まれていたとなる透析が長いからそういう死を身近に感じていたかもしれない,ただ死は急激だったと外からは見る,とても病人が発言しているようには見えなかったからである。
病気だと延々とその苦しみを書くプログが多いだろう。
そういうのがないから死ぬとは思えなかったのである。

死を意識するとき時間は貴重になる,その時やはり重い言葉となり深いものができる
啄木などでも死が迫ったときあれだけのものを書いたということでもわかる
死がなかったら人間の生は何か緩慢なものとなってしまうだろう。
死が人間に緊張をもたらしているのである。

刻(とき)はいま黄金(きん)の重みよ惜しむべきかな妻に子にしたたりて

刻(とき)はいま黄金(きん)の重みよ惜しむべきかなプログにしたたりて

こんなふうになっていたのかもしれない,ただ読んでいる人はそんな重いものとして意識していない,でも死んでみてそれを意識したのである。
死というのは人間に重さを与えるのである。

都築氏は文学にも通じていた,ただ「風雅和歌集」などを評価して写生をリアリティあるとしていたので写生についてもっと書いてもらえばよかった
ただ写生俳句の元祖の正岡子規などを評価しなかった
それだけの時間がなかったともなる,それが惜しいなと思った
十分な評論の展開ができなかったのが惜しいとなる

いづれにしろインターネットではまだレベルが低いし大衆化している,マスコミも大衆化して視聴率をかせぐ,それをまねたのがyoutubeだとなる
テレビも大衆向きに作るし硬いものは視聴率がとれないから出さない
結局なんでもこの世の中低レベル化して俗化する,カルト宗教団体でも大衆化して低レベル化して俗化する,それがこの世だからどうにもならないともなる

ただ今回の「心に青雲」の都築氏の死は高邁なものを追及して死んだので違っていた
インターネット上でもこういうことが起きたということで衝撃を受けたのである。
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