2017年09月16日

病気とブログと私 (心に青雲の都築氏の病気との戦いそして死)


病気とブログと私

(心に青雲の都築氏の病気との戦いそして死)

//kokoroniseiun.seesaa.net:80/archives/201112-1.html

ここに都築氏の病気の姿勢が書いてあった。


私は平成14(2002)年11月に腎不全で入院し、人工透析を受けなければ死ぬと言われて、とうとう障害者の仲間入りをしてしまった。

なにも社会に恩返しもせず、ただボケ老人となって週3回、病院のベッドに寝そべってカネをかけてもらうというのはみっともない。なかには完全にボケ、植物化しているのに、家族の「生きているだけでも…」というわがまま、もしくは生きていさえすれば年金をもらえることを狙いに、意味のない透析をさせられている者もいる。

返す刀でというか、私はブログでしきりに弱者の甘えを叱った。不妊症の女性が人工授精に走ることや、鬱病、ボケ老人、被災地の避難所で昼寝している怠け者などを叱った。
 それに対して、お前は健常者だから他人の痛みがわからないのだと、猛烈な罵倒を浴びることとなった。

 私だって障害者なんだ、弱者なんだとは言わなかった。



この姿勢には感心する,人間はどんな人でも病気には弱いのである。
自分も自分の病気と介護で苦しんだことをプログに書いた
都築氏からはそうした苦しみが伝わってこない,プログを読む限りそういう弱さを感じない,吐露していない,だから何か病気なのかと読んでいた
ただプログからだけではその人のことはわかりにくい

そもそも人工透析でそんなに生きられるのかということが理解できない
2002年からはじまり2017で死んだとかなる
30年も透析していた人もいるから驚きである。
要するに他人の病気というのも理解しにくいのである。
自分の病気なども何の理解もされなかった,ただその病気をいいことに責められたたげなのである。
人間は他人の苦しみを理解することはむずかしい

都築氏の感心するのは死ぬ直前までそういう病気の苦しさをプログではみせなかった
そして体の調子が悪いと書き込みがなくなって一カ月くらいで死んだのである。
寝たきりになり介護状態にもなっていない,死ぬ直前までプログに書くことに情熱を注いでいたのである。
それは意味あることだった,透析で金を使わせてもらい生かしてもらっているからという負い目がありそれで何か社会に役立つことをしてたいとそうしていたのである。

だから他人の介護と老いとか病気に厳しいから批判があった
自分が病気になのにそういう人達に同情しなかったからである。
現実に最後まで強気だったしそういう同情も要求していない,俺はこうして病気で苦しみながらプログを書いているんだよとか同情をかうようなことをしていないのである。
自分などは延々と書いていたのである。別にそれで同情されたこともないけどそうだった

死んでから思うのはそういうふうに苦しいものとして読んでいなかった
今思うと必死になって書いていたのかとなりそのことで書いたことの重みが残った
もっと日本文化面でも展開することがあった,それだけの多様なことに造詣が深かった
日本文化を追及しているのでそのことに共感していた

なぜこういうことがプログで起きたのか?
それはインターネットはプログは生放送なのである。
本とはできあっがものであり性質が違っているのである。
刻々自分の生きている,感じていることを書いているのである。
だからそうして日々書いていることは日々生きていることを伝えていたのである。
それが突然中止となったとき死んでいたのである。
本だったら有名な人でも日々は出していない,一年に一回とかだろう。
本は一冊で完成されたものとして書いてあるし死んでもそのように読んでいる

プログは毎日書いている,それは本とは違って日々の生きているその人の鼓動が伝わるようなものになっている
ただそうして他人のプログを毎日読んでいるのはわずかである。
自分は三人しか毎日読んでいない,第一それだけのものを書ける人はプログを書く人ではまれである。
だから熱心にアジ演説をしていた人が急に倒れて死んだという感じになったのである。
だから今でも死んだように思えないのである

ただインターネットは今までとは違いそういう人もでてくる。軽いメデアとも違い命をかけて書いている人もいるということに気づいた
それは日々の生放送なのである。
ただ都築氏の場合,他だったら癌のことをプログに書いているがそれは苦しみを書く,そういう病気のことはほとんど書いていない,文章からそういうものが全然感じられなかったのである。
だから死んでみてそこが一番不思議だった,自分は直接つきあいがないからわからないこともあった
でもプログを読んでいた人がみんなつきあいがあるわけではない,ただプログからしかその人のことはわからないのである。

だから都築氏のインターネット上でのプログで書き続けた死というのは今までにはありえない死だったともなる
今までインターネットは架空のことだとか重いものと感じていない人が多かった
今や命をかけて書いている人もいるという時代にもなったのかとなる
日々の生放送として伝えることができるということが今までのメデアと違っている
ただインターネット上でプログを書きつづけて死んだということが今でも何かその意味がのみこめないのである。
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