戦後引揚者の歴史は見逃せない
(飯館村の大倉の木戸木は最も辺鄙な開拓者が入った土地)
真野ダムから木戸木に入る
木戸木にあった半鐘 -ここはそれなりに一部落を形成していた
飯館村の大倉から七曲がりの坂を上ったおりた所に共栄橋とかありおそらく十軒くらい家があったかもしれない,今でも家五六軒残っている
ここは草野まで行くにもまた七曲がりの坂を上らねばならない
本当に閉鎖された最も交通不便な土地である。
地名として木戸木となっている
飯館でも長泥とか比曽とか佐須とかあるけどそれらは比曽とか佐須は焼畑地名である
そのことは何を意味しているのか?焼き畑していたということはそれだけ古くから人が入っていたということであり人が住んだのは実際は相当に古いのである。
飯館村は縄文時代でも浜通りより古いとかあり山の幸があり暮らしていたとなる
飯館村は新しいようで意外と古い時代から人が住んでいたのである。それは縄文時代にさかのぼる。大倉村というときこれも相当に古い,大倉の葉山ごもりという祭りも古い。
真野ダムができる前に集落がダムの底にあった,その時から自分は行っている
ただ山村でも誤解しやすいのがそういう古い村があるのだが戦後に戦争からの引揚者が土地を求めてどこにでも入ってきたのである。
戦争から引き上げても街は焼け野原になっているし何も仕事かない,どうして食べていこうとなれば農業しかない,それで開墾に入った歴史がある
それは街から近い鹿島なら今菅野漬け物屋の倉庫がある所にも戦後引揚者が開墾に入っていて自分はその家に子供の時行っていたから知っている,家で店をはじめて卵を買いに行っていたのである。その時真野川をわたる橋は土橋であり時代劇にでてくるような危険な橋だった,ゆれるし怖い橋だったのである。
卵は自転車で運び糠に入れていたのだが必ず割れていたのである。
そもそもなぜあんな近くに開墾に入ったのかというのがわからないがとにくか農業するために土地を求めて入ってきたのである。
その人は父親が双葉の新山と酒作りしていた仲間だったのである。
その生活は実際は貧困のどん底だった,子供のときだから良くわからなかったが戦後十年は何度も書いているが日本全体がどん底だったのである。
自分の家は店をはじめて早めに豊かになったが山村が豊かになるのは遅れたのである。
それより不思議なのは大倉からさらに七曲がりの道を延々と上る,そしてそこにわずかに開けた土地がある,そこで田んぼがある,そこからまた草野に行く道はさらにもっときつい七曲がりの道なのである。
そして最近できたのが別な道である。そこはまっすぐなので車も通りやすいのである。
今は道になっているがそこは森におおわれて小川にそって隠された細い道があった
そこは神秘的な場所だったのである。人がまだ踏み行ったことがないような神秘的な場所であり春になると大石がありその脇にキクザキイチゲが残雪のように咲いていた
そこはまず人はほとんど通らないのである。
そこはまた山の陰になっていて何かそれで神秘的な場所だったのである。
飯館というときあそこは一番神秘的に感じていたが舗装された道になって失われたのである。
ともかくあそこには人が住んだのは戦後である。共栄橋というのは戦後開墾に入った人達が住み名付けたのである。そういう場所は日本中いたるところにあるのだ。
全国で21万1千戸が開拓地に入植し、105万6千戸の既存農家が開拓地に農地を取得した。開墾施行面積は、44万9千haであった。しかし、開拓地の営農は困難を極め、開拓を諦め離村した者も多く、21万1千戸の入植者のうち開拓行政終了時点で入植を継続している戸数は9万3千戸と、半分以下に減っていた
戦後開拓地のうちには、大規模な国営開拓により、酪農等のモデル的な大規模営農が成立した地域[1]がある他、入植者の努力により畜産や果樹・蔬菜などの産地形成に成功した地域[2]もあるが、一方で営農条件の悪い地域も多く、特に山間部の小規模開拓地においては、開拓行政に基づく手厚い営農指導にもかかわらず、土壌や気候等の劣悪な環境の下営農基盤を確立できず、全戸離村に至った開拓地も多い
この戦後引揚者の問題は戦後の大きな歴史である,なぜなら今の山村であれ街の近くの農地でもそうした引揚者が開墾に入っているからその影響が大きかったのである。
もともと古い村があってもそのあとに開墾に入ってきた人達が必ず村には混じっているからである
相馬藩では天明の飢饉で三分の一に人口が減ったが越中からの移民で穴埋めできたのともにている,相馬藩ではそうしした越中からの移民などはやはり耕作には適していない土地を開墾するほかなかったらかである。それで苦しいので加賀泣きという言葉が残っているのである。
21万1千戸の入植者のうち開拓行政終了時点で入植を継続している戸数は9万3千戸と、半分以下に減っていた
これほど厳しかったのである。
これでもわかるようになぜ大倉村でもそこから七曲がりの道を越えたわずかな土地を開墾して暮らしたのか?あんなところでどうして暮らしたのか?
炭焼きなどで煮炊きはできた,清水が流れているから利用した,全くそこは自給自足しないかぎり生きていけいなのである。田んぼで米をとれたとしても土地が狭いからわずかなのである。
ただ戦前から戦後は木材の需要が多いから大倉のばあちゃんが俺は相馬の女学校出たんだよと言っていた,山持ちで金持ちになっている人が山にはいた,なぜなら木材は日本のものをみんな利用していた時代だったからである。
なんか自分はそうしたそこに暮らしている人に興味をもたなかった
自分は森に覆われた小川が流れている原始のままの自然状態に惹かれていたのである。
でもそこに人が住んでいて暮らしがあった,それは地形的に隔絶されていたのである。
でも十軒くらい家があった,自分が行ったとき車で帰ってきて家にいた人が見えた
何か半鐘などもあった,だから開拓村として一部落を形成していたのである。
でも交通が不便だから大倉に草野に出るだけで大変な労力が必要だった
車がないのだから徒歩なのか馬なのかそこは地形的に閉ざされているのである。
飯館村でも他は古い村であり昔から生活していたのである。
人間はなぜそんな不便な土地にあえて住んだのか?それは住む所がない生活する場がないから住んだのである。
田から前にも書いたがそういう時代と比べると飯館村でも原発事故で避難区域になった所は確かに無惨なのだけどその当時の開墾者比べればましだともなる
贅沢しすぎてもうそんな極貧の生活などしたくないのである。
隣の街に行けば今まで通りの贅沢な暮らしができる,補償金もたんまりもらったらそこで暮らした方がいいとなるからだ
その時代の差があまりにも大きい,だから越中の移民を見習いとか戦後の開拓者を見習いといってもそんなことをあえてする人は誰もいないとなる
その時そういう生活するほかない,強いられた時代だったのである。
とにかく飯館村は本当に広い,木戸木というところは自転車でまず大倉まで上り次にまた長いまがりくねった坂を上り出る,そこからまた七曲がりの道を上ってゆくから閉ざされた秘境だともなる
戦前でも何かこうした閉ざされた秘境のような所に住んでいた人は多い
なぜなら農業とか山林でも林業とかなればそうなる
福島県の檜枝岐は秘境というけど近くにそうした秘境があり人は自給自足を基本にして生活していたきである。
つまり秘境はいたるところにあった,それがあまりにも便利になり車でどこにでも行けるとなったとき秘境は日本から消えたのである。
自分としてはだからそういう社会はつまらないともなる
ただ飯館村は広いからまだ未知の場所がある,今回草に埋もれ石も発見したことでもわかる
道は未知への世界いざなう,それが飯館村とか阿武隈高原にある,いく筋もの道が山間に通じているからである。そこを自転車で行くとき未知(道)への旅をしているのである。
サイクリングだったら飯館の阿武隈高原を行くのが楽しいと思う
六号線とかなると車だらけであり嫌になるからだ。
いづれにしろずいぶんなの辺を自分は自転車で走った,それで今回久しぶりで遠くに行ったのである。十年間は介護で遠くに行けなかった,そのうち体力がなくなり行けなくなった,でも今回は前に気ままに阿武隈高原の道を自転車で行ったことを思い出したのである