飯館村の道の駅,までい館オープン
(久しぶりに飯館村を回る)
山鳩は飯館村にあって良かったが男女の像は都会的であっていなかった
夏菊や明るさ満ちて遠出かな
黒揚羽とまる朱きや彼岸花
黒揚羽日影の長く舞いてゆく
黒揚羽舞いて隠りぬ森深し
道の駅人々休み芙蓉かな
峠越え森の中にそ石一つ苔むし静か秋の日さしぬ
秋の蝉鳴くもあむれも飯館に帰る家や夕暮れぬかも
森深み秋の蝉鳴く余韻かなその声聞きつ夕暮れぬかも
石一つ草に埋もれて奥の道野菊咲きそめ人知らじかな
この辺り人の住まじも草うもる石の一つに野菊咲きそむ
道遠く我が迷えるや秋の陽の山の間に没り我がひきかえしぬ
飯館は実りもなしに荒れ果てぬいつ帰らむや秋の日暮れぬ
草埋る石一つ
人の汚き息のかからじ
しんとして人も通らぬ
奥の山の道の辺に
草に埋もれて石一つ
人知らずありぬ
野菊数輪はやも咲くかな
その花けがれなきかも
その石に向かいて咲きぬ
人住まずなりしも
花は変わらずここに咲くかな
飯館村へ一年半ぶりとかに行った気がする,それより今年は7月ころから自分は病気になっていた,熱中症にもなり暑くて体が弱り遠出できなかった
今日は秋めいて涼しいのででかけた,まだ夏のような感じもして夏菊が栃窪に咲いていたとき気持ちよかった,そして飯館村をまわりひさしぶりに旅の気分を味わった
飯館村の道の駅はすばらしい,ただあそこだけが飯館では復興した感じである。
近くのきれいな住宅は子供も一緒に住めるように作ったと聞いたが住んでいたのは老人だけなのである。それは小高とか原発避難区域とにている。
若い人たちは帰らないから子供も帰らないのである。
学校がまだ開校できないのか通っても外から通うし飯館に住まないのである。
つまりどこでも立派な建物は作る,肝心のその建物を運営する人がいないのである。
飯館村には立派な建物が老人ホームでもできている,ではそこに働く人がいるのかとなると不足しているのだ。そもそも肝心の人が帰らないし住まないのだから復興はないのである。
道の駅のまでい館は立派である。釣り花とか芙蓉が咲いていた,芙蓉は前にも飯館村で書いたがあった花である。おおらかにゆったりと山中に咲くということであっていた
飯館で常に感じたことは花が他に咲くより何か本来の野生の美しさをもって咲いていた
それはいつも不思議に思ったことである。
それは森が深いと草深いとか何か原始性が残っているためである。
雰囲気が他と違うのである。
彫刻として山鳩をあしらったのは良かった,森が深い飯館村には山鳩が塒(ねぐら)となりあっていた。ただ男女の像は何か都会的であっていなかった。
やはり都会人が作ったものだかそうなったのか,何か木とか花とかをイメージしたものが良かった。こういうのはそこに住んでいる人が作るのが理想的だしそうでなくても
そうしたことを聞いて相談して作るべきではあった
その土地柄にあったものはなかなか外部の人にはわからないことがあるからだ。
ただあの釣り花とか芙蓉を飾ったのはあっていたのである。
それで今回感じたのは道に迷ってずいぶん遠くに行ったなと見たら草に埋もれた石があった,そこにすでに野菊が数輪咲きそめていた,それが他で見るより何か汚れなくきれいに見える,その辺りの雰囲気がそうさせているのである。
それはいつも感じていたことでありまた発見したのである。
ただそこに人が住んでいないということは奇妙なのである。
一応家々があるから人が住んでいないとも見えないのである。
わずかだが帰っている人はいる
でも荒れ果てた荒野にもどっている
そして人間は村でも人が住まなくなるなるとどうなるのか?
例えば秋の蝉が鳴いている,それは人が住んでいてその声がひびくとき人にひびいているのである。
では人が住まなかったらどうなるのか?それは原始の森にもどりそこにひびくことになる
でもその声を人の住まない森で聞くのとは感じが違ってくる
秋の蝉というときやがてはもう聞こえなくる消えてゆく蝉をイメージする
それは人間でもそうイメージしているからである。
人が住まなくなればそのようにイメージできなくなるのである。
ただ道がつづいていて人がまれではあるが通る,でもまだ除染の人とか家の解体工事とか仕事している人がいるが人は住んでいないから変なのである。
ただ人がまれでも通ることで死んだとはならない,完全に原始状態にもどったとはならない,だからこそ草に埋もれた石を詩にした,詩にすること絵にすることそれは人間化しているからである。
そしてもうこの年になると自分は旅してきたが遂に伝説化してくる,自分は何かその草に埋もれた石となってそこに埋もれてゆく感じになる
旅路の果てに遂には遠い奥の道の人もまれにしか通らぬ,草に埋もれた石となる
それが自分にふさわしいとつくづく思った
ともかく久しぶりに旅の気分を味わった,日差しが弱くなったのとやはり秋なので風が涼しいからそれほど体は疲れなかった,まだ行けるのかとも思ったがあとでまた疲れた
旅は道に迷うがそれが旅なのである。気ままに別れ道があったらどっちに行こうかとか行くのが旅である。車だと旅にはなりにくい,別れ道といっても何か歩いたり自転車で行くのとは違う,前に阿武隈高原の魅力は道にあるということを書いた
道が延々とつづいている,それも山の中でありそれが魅力なのである。
浜通りになるとそういヴ魅力に欠ける,やはり山の中ということでその魅力が生れていたのである。だからまた飯館から川俣とか三春とか行ってみたいとなった
そうなると一日では行けない,体力的にはかなり苦しくなった。
阿武隈高原の魅力は道にある