2017年09月06日

談論サロン天寿道(掲示板より) (立ち歩くことによって人間になったー「心の青雲」の認識論)


談論サロン天寿道(掲示板より)

(立ち歩くことによって人間になったー「心の青雲」の認識論)

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木を降りることになりますが、サルは本来の足も手になってしまっているので、歩くのは得意ではありませんので極めて危険です。そこで木からあまり離れたところには行けませんが、この木に登ったり下りたりの繰り返しの中で、認識的には木の上にあやふやに認識と降りてのしっかりとした認識の繰り返しの中で、天空のあやふやの像と地上のはっきりとした像との交互的相互転化の繰り返しによって、その中で、空間的な像が時間的な像へと量質転化していくという発展があって、

この人間の見方も面白いと思った,前に歩くことの効用を書いた
人間は猿のように木に留まっていたら人間にはならなかった

人間は大地に立ち歩くことによって人間になった

立つこと歩けることが人間の認識と精神を作ったとなる
動物を見れば四つ足であり立つことはない,ただ歩いてはいる,しかし立って歩くのとは違う。動物は常に下を見て餌を探すために歩いている

人間は立ち歩くのは上を見るためである。上には実際は天であり銀河であり餌となるものがないのである。でも人間は天を仰ぐのである。天なる所にいる神を仰ぐのである。

そして立つということは人間を人間たらしめたというとき木をみればわかる
木は立っているのである,すると人間は立つことによって木と同化する
木の上にぶら下がっていたらそういう認識は生れない
大地の上に木のように人間は立つのである。木は最も人間に親しいものとなるのはそのためである。

英語でもstandからunderstandとかは理解する,認識するとなっているからだ
そして立つことから人間の自然への認識がはじまった,まず木の上にぶらさがったり四つんばいの状態では認識は生れない,ただ日々餌を探すということに終始しているだけになる,立つことは天を仰ぎ星を見ることにも通じている
そして立つことによって木への認識が生れた結果神殿も生れたとなる

そもそも神殿の柱は木を模したものだからである。木が実際に人間になっているのもあるからだ。立つことにより木の認識が生れ神殿が生れたともなる
列柱というときそれは森の木が列を成していることだからである。

心に青雲の都築氏の弁証論などはわかりにくい,ただこうした立つこと歩くことから認識論を展開するとわかりやすいのである。
自分は常に田舎で木とか石とか森とか山とかと同化することで詩を書いたりしてきた
だから自分の思考は自然の像と常に結びついているのである。

ところが東京とか横浜であれだけの大都会になるとそうした自然の像がないのである。
像で考えろというときその像たるものがないのである。
そこに「心の青雲の都築氏の認識論が深まらなかった結果なのだろう。

哲学があるとする宗教でも詩が必要なのである。そうして総合的なものとして学問でも芸術でも何でも結ばれるときルネサンスが生れたのである。
そういうことで都築氏は何か理解しにくかったのだが社会性とか歴史の中での芸術を見ていた,芸術でも社会と切り離せずあるというのは本当である。

例えば絵画は建築の一部としてあり荘厳なカテドラルは一つの総合的なものとして結実である。ヨーロッパの社会歴史と不可分なものとして生れた,だから絵は絵とか音楽は音楽とか単体では存在し得ないものだった,そこに荘厳な文化が形成されたのである。
文化とは俳句とか短歌という一部分のことではない,全体のことだからである。
その全体が興隆するものが現代にはない,社会が無数のパーツ化していることでそうした荘厳な文化が形成されないのである。

いづれにしろどうしても東京であれ横浜であれ認識論を深めてもそこに自然というバックグランドがないとき人間はいくら努力しても偉大にはなれないのである。
つまり巨大な都会の中で混沌の中で一機械の部品となり歯車としてしか生きることができないのである。高層ビルを見ても認識が深まることがないからである。

でも人工的なものでもヨーロッパには日本と違って建築が人間に威厳を与えていたのである。駅まで立派なローマ風のアーチの建築になっていてそれでラファエロの「アティネィの学堂」の絵のように威厳が与えられていた,だからそういう感覚は日本ではもてないのである。そこにはヨーロッパの社会と歴史が一体化して結実したものとして荘厳なものが華開いたのである。
「心の青雲」都築氏はそういうことが語りたかったのだろう。
ただそれを展開するには不十分であったのはバッググランドとしての自然の中に生きていなかったからだともなる
ただ批評家として優れたものがあったとしても文芸批評でも十分な展開はできないなかった

ここでわからないのは

空間的な像が時間的な像へと量質転化していくという発展があって

空間的なものが時間的なものへ質量転化するとは何なのか?

動物には時間がないという,歴史もないのである。
ところが人間と木と同化するときアイディンティティ化するとき木に年輪があり時間とともに成長する,大地に根を張り時間軸としてその土地に根を下ろすのである。
大地に根を下ろすことによってその土地は一体化して認識を深化させるのである。
それが都会だとしにくい,だから文化は田舎から生れる
都会化したとしても神殿の柱は木でありゴシック建築はゲルマンの森を象ったものとして造られたということでもそうである。

ただピラミッドとかアーチの建築には精神性が何かしら備わっている,それは技術的なものとしてだけ見るのではない,機能的なのもから建築が発展したとしても精神性が備わるだからラファエロのアテネの学堂は建築と人間が一体化した荘厳なものを表現したのである。



この引用もまた問題あるかもしれない,これの著作者は誰なのか?
ニックネームだとわからないからまた著作権の問題がでてくる
掲示板だとまたわかりにくくなる
ただ「心の青雲」は死んだので引用しやすくなった
生きていたら攻撃されるし許可も必要だしできないのである。
天寿堂さんからはコメントがあったし都築氏と親しいということで
この発言は都築氏なのかとも思う

「心に青雲」都築詠一氏の部をはじめました

ここにまとめることにしました
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