2017年09月05日

「心に青雲」の都築詠一氏の文体 (歩くことの効用から抜粋)


「心に青雲」の都築詠一氏の文体

(歩くことの効用から抜粋)


文章診断

これだと読みやすいとか適切だとかやや硬いとかあるから合っているのだろう。

刑事たちが歩くということにはどんな効用があるか。それは歩くことで刑事のカンが発達することである。
 犯人が辿ったあとを歩くことで、犯人の像ができてくる。犯人の感情がわかってくる。そうやって認識が創られるとともに、足を使うことによって頭が良くなるという二重構造があるのだ。
つまりカンとは実体的ありかた(歩く)で創ったもので、それは二重構造になっている。

松尾芭蕉も歩きに歩いたから、俳句の認識が創られるとともに、足を使ったころで頭が良くなり、前人未到の俳句を芸術の域にまで高めたのだった。
カントもヘーゲルも歩いたことがプラスになったはずである。

「心の青雲」旧プログ

こういうことを常に言っていた,頭ではなく身体で考える,推理ドラマを犯罪にあってから良く見ていた,確かに現場に行けというとき歩いてその状況を体で知るとなる
歩くというとき今は車だから歩かない時代である。
その歩かないということは現代人に相当に影響している
ものの見方から認識のしかたに相当影響している

街でも歩いていると街の認識の仕方が違う,通りを歩けば一軒一軒の家を店でも見る
車で自転車だって通りすぎることが多いので歩くことは原始時代にもどり認識を高めたり深めたりする,そのことを自分はこれまで書いてきた,自転車で旅するのと車で旅することも相当に違う,特に峠を越えるとなると全く違った認識が生れる
それは歩いていると同じになる。自分は坂を上る力がないから歩いて自転車をひいて上っていたからである。
旅は歩いてするのと自転車でするのと電車でするのとバスでするのでもみんな違ったものになるのである。

文章でもパソコンで書くのと墨で筆で書くのとまたペンで書いたり鉛筆で書いたりボールペンで書いたりといろいろあるが違ったものとなる
最近は全くペンなどで書いていない,パソコンばかりである。
だから文章を書くにしてもそれが影響しているし横文字になるのも影響している
だからどちかというと話し言葉になりやすいのである。
現実に文でもって話し合っているのがバソコンのインターネットのメデアである。
それで短い文が多いのである。

プログになると長い文が書ける,自分にとっては合っていた,長く書けるので深いものを追及できるからである。
「心の青雲」都築氏の不思議の一つに明らかに文体があったのではないか?
それが現代のインターネットの電子空間にもマッチしたものとしてあった
話し言葉と硬質な旧来の文章の混成がありそれがわかりやすいものとなり読みやすいものとなっていた,でも硬質であり深いものがあり独特の表現となっていた

日本語自体が第一大和言葉がありこれは何か女性的なものを感じている,そして漢語とかなの混成語になったのが日本の文章だから日本語は相当に複雑である。
話し言葉だと柔らかくなり漢語だと硬い表現になる,それがミックスした文章になるのが日本語である。
もともとそういう性質があったのだけどそういうものが「心の青雲」の著者にはあり
それがプログで表現されたこともあり今までにない文体が作られたのかもしれない

自分の文体を診断したら読み安さとか適切さとかはない,だから読みやすい文ではないとなる,何か話し言葉だけだとたるんだものになるが本来の文章を書くとひきしまり重厚なものにもなる
そういうものが「心の青雲」都築氏の文体にはあった
そもそもこれだけの内容と文を書ける人はあまり見当たらないのである。
ただそういう硬質なものだからまたそれに答えることはむずかしかった
絶えず有名人でも批判していたから普通の人は批判するのがむずかしかった

そういうことで死んだということログが消えていることが残念である。
何かこうして書いているとあの世から電子空間で読んでいるのかとなる
自分は別に交流もないし自分のことは注目してもいなかった
自分はずっと読んで注目していたのである。

ただなぜ都築氏は自分がせっかく書いたものを消そうとしたのか?
また残そうとしてかっのか?それも謎である。
何か自分の記念になるものを人間は残したい,それが普通である。
なぜ消そうとしたのか,それも謎である。
もしたいした文でもない雑文ならそういうのが山ほどあるから消されてもどうでもいいとなる
しかしこれだけの内容あるものを書き独特の文体で表現したものをなぜ自ら消そうとしたのか?自ら書いたものをどう思っていたかのかも不思議である。

いづれにしろ都築氏の死は何を意味しているのか?
それはやはりインターネットの中の電子空間で死んだということが何なのか問うている
そもそも人間が死んだというとき知らなければその死が本当に確認できるのか?
例えば死んだ俳優が今でもテレビにいくらでも出ている不思議がある
すると死んだように思えないのである。
死んだというニュースを知らないとしたらまだ生きて演技しているだけだとなる
死は感じられないのである。それと電子空間の死はにている

死は看取りから焼き場で灰になるという残酷な過程の中で認識する
そういう認識が別にインターネットの電子空間だけではない,知らない人の死など認識できないのである。近くでも死ぬ人などいくらでもいる
昨日あってしゃっべていたなと思った人すら死んでいる
でもすぐに忘れてしまうのである。

ただその人の残したものが意味あるものだとするとその記録から死者を思うのである。
家族とかなると死んでも何も残さなくても不思議なのは自分は声を出して死者と語っている,そしたら本当に死者が生きているように感じたのも奇妙だった
だから家族のような場合,死者は家族として生きつづけているのである。
他の人は何か特別意味あるものを残さないとすぐに忘れ去られるのである。



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