2017年09月04日

インターネットはプログは重要なものはログをとって読む (リンク先のログはとっておくー「心に青雲」のログが死亡してなくなる)


インターネットはプログは重要なものはログをとって読む

(リンク先のログはとっておくー「心に青雲」のログが死亡してなくなる)


インターネットをどう利用していいのか?その著作権とかリンクとか何かなのか良くわからないのである。
「心の青雲」の都築氏が死んで考えた,ログが二カ月分残っていたものがあった
でもたったの二カ月分だけだった

自分のリンクしたログは残っていない,どこにあるのかもわからない
もうリンクはたどれないのである。

だからインターネットは特にリンクをはったりしたらそのログは記録しておくべきだったそうすればこの文にリンクを張り書いたとなり死んでわかるからである。
こういうことはインターネットも高齢化社会になると起きてくる

ただグーグルとか他の機関でログをとっている場合がある,つまり本と違って電子空間は膨大な記録を保存するのは簡単なのである。
本だったらかさばるし国会図書館でも保存でときなくなっているのである。
本ももう膨大なものであり保存すること自体不可能になっているのだ
ただ電子空間なら膨大なログを保存できるのである。
書斎もいらなくなるのである。

ともかくインターネットはどう利用していいのかわからない面がまだまだある
まさか「心の青雲」都築氏が死ぬとは思わなかったからである。
ただ17年も透析していたとなるとそこから死もありうるのかと想像する
でもそれを知らなければ透析でも元気にしていられるのかと思ってしまう

ともかくインターネットの電子空間ではログをとることが不可欠である。
突然消えることもあるからだ
ただ何かそれも容易でない面がある,めんどうになるのである。
ただグーグルとか東京大学とかではホームページとかプログでもログを巡回して集めているみたいだ,どこかにそうした機関があり記録されているかもしれない
図書館に本を集めるより技術があるなら簡単にできるからだと思う
それはどんなに膨大でもできる,それが電子空間の記録(ログ)なのである。

つまり技術がある所ではプログでも日付順でそっくり残せる
するとそれは本と同じになるのである。
ただ十年二十年とかなるとどうなるのかわからない,記録が呼び出せなくなるかもしれないからだ

ともかく「心に青雲」の都築氏のプログが内容があったからログをとり再検討すべきものだった,幅広い分野に批評できるものがあった
文学とかの分野でもっとその批評を書いてもらいたかったのである。
批評家として優れたものをもっていた,それがわからなくなったのは残念である。

記録というのは人間で大事である。
なぜなら自分で書いたものでもこんなことを書いていたのかと発見している不思議があるつまり人間はとにかく忘れやすいのである。だからその都度書いたものでも忘れる
何でもメモしておけというとき忘れるからである。

人間は最後は記憶や記憶がその一生になる,認知症になるとまさに記憶に生きるのでありそれが人生だとなってしまうのである。
だから記録がない記憶が消えることは一つの死を意味しているかもしれない
記憶が残り記録が残れば何かを過去を知る,墓でもそうである。
一行からでも何かその人の過去を知るということがあるが記録も記憶も消えたらその人はこの世にあったこともわからなくなる
直接接しなければ本とか記録からしか知り得ようがなくなるからだ

とにかく「心に青雲」の都築氏の死はインターネットの中での大きな事件だったかもしれない,こうなることは予想しなったからである。
だからインターネットの利用方法がまだ成熟しいないということがこれでもわかったである。

何か不思議なのは死んで一カ月にもならないとすると生々しいしまだ生きているのかともなる,何かまだプログに書き込みするのかとも思ってしまう不思議がある
何かインターネット上では死んだという実感がわかないのである。
電子空間の中での死となるとそれはまた普通の死とは違う,でも現代的死でもあるのかもしれない,毎日数年間も読んでいたらやはりその死の感じ方は違う
何かまだプログから発信している,書き込まれている感覚になっているのだ。
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