2017年09月03日

自然と結びついた言葉の重みの喪失 ( 空間に受肉したのが自然の事物-そこから言葉も生まれた)


自然と結びついた言葉の重みの喪失

( 空間に受肉したのが自然の事物-そこから言葉も生まれた)



人間は空間において受肉しているということ

『人間と空間』 フリードリッヒ・ボルノウ

この一行が興味深い表現である。受肉というときキリストが神の言葉が現実化した、肉体化した存在としてある。日本語の概念にはない言葉である。
神の言葉が空間に受肉したというとき自然も神の言葉が受肉して現実化したものである。神の言葉がロゴスがembodyした存在である。この世に実在しているものはみんなそうである。神が創造したものだからである。

むしろ言葉の前に神の創造した実在がなければ言葉もありえないのである。
山がある、岩がある、樹がある、その山も樹も岩も見ていないならその言葉も理解できないのである。
人間は空間において受肉しているということ・・・・人間はまず空間の中に生まれるから当然である。空間は常に意識されるものである。
でもその空間がただ平坦な砂漠のような所とか日本のように山が多い地域とかその空間は世界では様々な様相を示している、そうした空間が地域とか国の個性を作る
風土が国の文化を作る、そういう空間が風土がなければ個性的文化は作られなかったのである。

自然の事物は空間に受肉したembodyしたものなのである。そして言葉は生まれたのである人間はまず言葉だけから自然を理解できるだろうか?
もし海や山や湖や川や木や岩を見ない人はその言葉を理解できない、何のことかもわからないのである。例えば火星とか他の惑星で生まれたらそういう自然がない、としたらそういう言葉もないのである。
不思議なのはもし火星とかでも他の惑星に行ったとき人間は地球の記憶がありそこでなんらか地球の再現を試みる、何もない所だったら山のうよなものを作ったり川のようなものを流れを作ったりする、ちょうど庭を作るようにである。
人間は言葉だけからでは何も理解できないのである。それを裏打ちするものがあって実在があって理解できる

言葉が死んだというときロゴスが死んだというときそれはそうした実在が喪失したからに他ならない、東京のような大都会になるとそこを埋めつくしているのはビルであり車であり人である、そこには自然がない、とするとそこではすでに自然の実在がないのだからその言葉も理解できない、身体化できないのである。
言葉を失うというとき大都会の前では言葉を失う、もう言葉で表現できないからだ
言葉で表現できないものの前に立って唖然としてたたずむ他ないのである。

それはピカートとなら騒音語でありロゴスを失った原始の混沌にもどったともなる
人間は混沌(カオス)を嫌いロゴスを求めてきた、ロゴスというときこれも日本語の概念にはない、秩序とか規律とかもあてはまる、それは数学的にもあてはまる、秩序とか規律とかを求めて生まれた学問だからである。

空間に受肉するというとき砂漠だと何もないからこそそこにピラミッドが人工的に山のようなものが作られたのである。その建築物も空間に受肉した人工的実在化したものであるartifishl embodied objectである、文明をみるとき建築からみるとわかりやすい、エジプト文明はピラミッドに象徴されているしローマはアーチの煉瓦造りの建物に象徴されるその後はキリスト教のゴシック建築のようなカテドラルに象徴される
それは荘厳な空間に受肉した具体化したものとなる
不思議なのは駅までヨーロッパまではアーチの荘厳な建築があり威厳を感じる、人間に威厳を与えているのである。駅にはそんなものが必要ないという意見もあるが建築からみれば建築が人間に威厳を与えているのである。それでアティネイの学堂のようなラファエロの絵が生まれたのである。

荘厳であるとか威厳があるとかなると自然には常にそういうものがある、山や岩や樹や大地とかにある、抽象画で変化させた山の多様な姿を自分でパソコンで作り出して不思議だった、こんな多様な山の姿があるのかと自分で感嘆しているのも不思議だった
それは現実の山の反映なのだが現実の山には見えないものである
でもart(技術)がコンピュターの技術がそれを見させたから人工的なものが第二の自然でも作り出すとういことはある。

人間の顔にしても神の受肉した自然から形成されてゆくという

「だから山地の住民は,その顔に山の姿を明瞭に写している,そそれたつ岩壁は彼の顔の顴骨(侠骨)にあらわれている,小径や,秘めやかな場所や,山々の戴(いただ)きもらの顔の中にある,そして,頬のうえの両眼の明るさは,ちょうど暗紫色に襞どられた山々の上の空の明るさのようだ」ピカート(人間の顔)

詩にしたがこの辺では森が多い,飯館村だと70パーセンとが森である。
するとその深い森の影が心にいつも宿る,それが顔として形成される
都会だとそういう自然がないのだからその顔はロボットのような顔になっているのだ

現代人の顔は何なのかとなる、自然は反映されない、数式化したロボットのような顔にもなる、そこでは詩語もないしロゴスもない混沌(カオス)がある
そういう所に生きているのは精神を病むというのは必然である。
鬱病にみんななっても不思議ではない世界に生きている、人間という存在を保つこと自体不可能な環境に住んでいるからである。
そこは火星なのかどこか地球ではない別な惑星に来た感じにもなる

だからどうしても天才的なエネルギーのある人はもう耐えられないである。
そうしてニーチェとかミラーとか上野霄里(しょうり)氏とかアウトサイダーが生まれたでもこの社会では受け入れられないのである。
そういうアウトサイダーはまた恐竜のような存在になる
文明そのものを破壊するものともなるから受け入れられないのである。
でもアウトサイダーになるとき自然の中でロゴスとか言葉でも回復する
空間を風土の中でもう一度詩語が生き生きとして自然の中に脈打つ活きた言葉となるのである。それはとても東京のような所ではありえないのである。
人間はそこで統計的数字にしかすぎない、宗教でもカルトであり一票として数としてあるだけであり人間として認めるものはなにもない

人間はそこでは経済的に政治的な数としてしか見ない、統計的数として処理するだけなのである。だからそこには荘厳な人間の死もありえない、人間は一個の数字として処理するだけだとなる、それだけの意味しかもたらされないのである。
それはどんな大会社にいても同じである。人間の個としての荘厳な死がないのは生きているときからもともと荘厳な意味あるものがないから死にもないのである。
人間は無数の部品の集合体である、その一つが欠けても意識すらされない、でも小さな島のような所に生活しているとその存在が大きくなる、部分にしてもみんな大きな部分になる、小さな町のような所でもそうなる、全体というのを把握しやすくなるからである。

ただ今や小さな町であれどこであり巨大な文明の中に抱合されているから人間が部品化されて生きる、その部品化されないためにはアウトサイダーになるほかないのである。
その人は文明の中では見えないとかにもなる、存在しない、存在させられないともなる
人間は部品化したものとして専門家したものとしてしてしか職業でもないし意識されないからである。全人間など理解もできないし意識もできないのである。

原発でも地域の生態系で風土のもつ空間にどう影響するか?全体的な空間でどう影響するかなど考えない、結果的に空気も水も土も森も汚されて住めなくなくなったのである。
その影響は計り知れない、でも地元に住んでいる人も自然という風土から離れて生活しているのが現代である。第一次産業が一割にも満たない生産力しかない、だから自然との全体で空間を地域を考える人はまれである、農民は自覚したとしても少ないし純粋な農民は一割にもみたないし農業は跡継ぎがないなど否定されてきた
そういう心性がつちかわれてきたとき原発はかえって容易に地方の風土とか生態系を無視して入りやすくなっていたのである。
多国籍企業が日本でも熱帯の森を破壊しているというのもそうである。
巨大な資本がその土地土地の生態系を破壊して原発事故で水や土や空気まで汚染されて住めなくさせたのである。
森の哲学者と言われたオラウータンも住めなくなったのである。
だから原発事故は文明の崩壊現象として起きたともなるのである。


タグ:人間と空間
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