鷺が元の巣に帰り平和な里にもどる
深野(ふこうの)に夕べひびきぬ蝉の声
善徳橋今日もわたりて木槿かな
鷺脚を流れる水に浸すかな
合歓の花風にそよぎて田舎駅でで虫の殻や電車とまりぬ
水無川今日清らかに流れつつ翡翠数羽飛びて来れり
山鳩の夕べ飛ぶかな我が里や実りそめにし稲穂見るかな
山鳩の夕べ飛びにつ今日一日平和に暮れむ心なごみぬ
我が里に牛のいにつつ動かざれ秋めく風の吹きにけるかな
鷺あまた前の巣にそもどりけり夕風涼しともに眠りぬ
この辺は元の状態にもどりつつある,鷺の群れが竹藪にもどり眠る
あそこには震災前も鷺が群れていたからだ
それで前のような状態にもどったと感じた。それだけ田んぼが増えて餌も増えたからである。田んぼがなければ鷺も増えない,なんかこの辺は動乱がつづいたのである。
それは自分の一身上でもそうである。精神的にもへとへとになってしまった。
だから何か今は平和だなとつくづく感じる,そういう光景は30年くらいつづいていたのである。
人間は一生の内平穏無事には終わらない,時代的にも大きな変化に必ず見舞われる
これから生きる人もそうである。それはどういう変化なのかもはや想像もつかない,
想像もつかない変化が起きる
蛙が盛んに鳴いたときも復興を感じた,そして鷺が増えたことで復興を感じた
常磐線が開通したことで復興を感じた,そこで駅のボランティアしているのも不思議だとなる
ただ小高とか浪江となるとその差が大きすぎるのである。
自然も田んぼがないから蛙も鷺もいないのである。
前も田んぼがない田舎が考えられないと書いた,田んぼは単に米をとるというだけではない,日本人の原風景になっていたからである。
だから都会の人と田舎の人の感じ方は違うのである。
神戸の地震のような復興と田舎の復興は違うのである。
田舎というとき深野(ふこうの)とあるがそこの感覚はやはり独特なものがある
それは簡単に言い表せない,歴史的には深野は大原よりかなり古い,
中世の館という地名が二つあるからだ,大原は相馬氏進出して開いた
相馬氏から来る前から深野はあった
郷土史は村の新旧を知れというときその土地についてわかり俳句や短歌や詩にするときでも深いものができる,また鑑賞もできる
ただ深野に夕べ蝉が鳴いている,ただそれだけでは何がいいのかとなる
深野とは短歌ならその前に枕詞がつく,暮れなづむとかなる
暮れなづむ深野の里に我が来る蝉の音ひびきあわれ深まる
小池から坂をおりて「ユッサ」にゆく道である。あそこは実際に草茫々にまだなっているところがある,そこは牧草地にするという,小池でも震災前から牧草地になっていたところがある,牛舎がありやめたのかと思ったらやめていないという
また牛を飼うことをはじめると言っていた
結構広い土地が牧草地になる,ただ田んぼかなり増えた
田舎は村ごとに違った印象を与える,その土地土地の地貌が違うのである。
それが自分にとっては詩とかの題材になる,何か今はその土地土地の特徴が失われているが以前として地貌というものがある。
栃窪も橲原でもそうだし大原もそうだし特徴がある
今よりそこで自給自足していた時代はもっとその土地は特徴があった
生活そのものすら他の村と違うということがあった
だから日本は無数の村があるとしてその村は地形的にも違っていて地貌があり狭い国でも変化がある。大陸だとどこまで行っても平坦で嫌になるだろう。
日本は海あり山あり変化があるから旅をしてもあきないのである。
小池の善徳橋は前は木の橋で趣があった,土橋のようなものだった,真野川だってそういう土橋であり子供のときわたったがゆれるから何か怖かったのである。
そういう橋は洪水になると流されやすい,日本では橋は頑丈でないから流されやすいのである。野馬追いの行列も新田川をわたるとき橋が流された絵が残っているのもそのためである。
善徳とは人の名前である。橋でも田んぼでも人の名前がつくということはそれだけその人が生きていたとき何か貢献してそうなったともなる
人の名前を簡単にはつけられないからである。
水無川は最近雨で水が流れている,カワセミを三羽ほど見た,これはめずらしいとなる
今合歓の花が咲いている,駅の向かい側にも咲いている,そして夕べに電車が来てとまるでで虫の殻が残っていた,何かそれは田舎の平和な風景である。
しかし駅にあやしい人がいるということで警察に通報されたことはショックである。
その時田舎の駅の平和は乱されたのである。
だからそれには自分は怒りになっているのだ。
山鳩は平和の象徴である。そして稲穂が実りそめる,なんとなくもう今年は秋めいた。
ただ今日も曇っているから天気がぱっとしない日が本当に長くつづいたなと思う。