2017年08月30日

個々人家族によって違ってくる介護の事情 (社会的な負担と家族の問題)


個々人家族によって違ってくる介護の事情

(社会的な負担と家族の問題)


介護というのは家族の事情によって違ってくる,家族はみんな違っているからである。
トルストイのいうように家族の不幸はみんな違っているのである。
ただ家族でも家族内で介護とかしていればそれほど社会に負担にはならない
自分の場合は姉は病院に半年以上入院した,母もトータルではしたかもしれない,でも死んだからそれほど自分でも社会で負担にならなかったかもしれない
そして自分としては介護して良かったなとつくづく思う
なぜなら自分ほど家族に良くしてもらった人はいないからである。
だから恩返しできて良かったなと思う

そして苦しかったけど最期に姉が死ぬときうなづいてわかってくれたことせ救われた
認知症の謎は完全に馬鹿に痴呆になったのとも違う,正気にもどるときがあり意識不明になるときその直前に正気にもどったのである。その後意識不明になり一カ月後に死んだのである。だから自分の場合は老人は介護に金がかかるから早く死ねというが自分にとってそうではなかった,百才で死んだ母もそうである。
百才まで生きる意味があったのである。

生きる意味があるというとき家族内での生きる意味があり社会から見るのとは違っている社会では無駄だと思っても無駄でないことがある。
家族内の価値観と社会の価値観は違うのである。
たから社会の価値観を家族におしつけるのは問題になる
社会の負担蜷というときやはり家族内の問題が社会の問題になる
それは主に金の問題である。社会に負担をかけることはそこで不満が大きくなっている
金だけではない労力の問題もある

例えば障害者がいる家族の苦労は並大抵のものではない,そういう人を知っているが結果としてそういう人にそれだけの労力を払うのになぜ自分には払われないのだろうとか思う自分は家事でもなんでも全部自分一人でしているからだ
障害者にそんなに労力を払ってなんの意味があるのだろうというときまさに介護ともにているのだ,何の益もない死ぬだけの老人にそんなに金を使って延命治療したりして長生きさせるのは無駄だとなる,それは社会で負担するとそうなるのである。
家族と社会の価値観は違っている,家族なら障害者でも母には愛がありめんどうをみるのである。ところが社会というとき他人であり愛をもつことがむずかしくなる
それは金食い虫の無用なものとなるからだ
だから障害者を家族でめんどうみるならいいが施設に入れると社会で負担することになるから問題が起きるのである。

ともかく家族の事情は不幸はみんな違ったものであり家族のことは外部の人が見てわかりにくいのである。それは家族と社会の価値観が違うからである。
家族にとって意味あるものも社会にとっては意味のないものとなる
ただ金と労力を負担するものとなる,そしてどちらかというと介護はもう家族の負担で負いきれないから社会の負担となる,そこに膨大な金がかかり国では限界だとなったのである。

社会では金がかかるから延命治療はやめろといっても家族ではそう望まないものもいる
それは個々人でも事情が違ってくる,社会というのは個々人の事情は考慮しないのであるだから社会は非情だとなる,でもこれだけ老人が増えて介護でも病気でも費用がかかればもう社会では限界だとなる,その負担は若い世代にかかれば国すら介護で弱体化してゆくともなる,高齢化社会で国が弱体化して衰退してしまうのである。
だから社会では非情になるのはやむをえないともなる

ただ自分の家族の場合はそれほど負担になったと思えない,姉はなったが病院に半年ほど入院していたが死んだからである。それも負担にしろそれよりずっと長くなる人もいるからである。
母の場合はほとんど社会的負担になるものはなかった,入院してから一カ月にもならないで死んだからである。こういうものは社会的負担となっているとは思えないのである。
だからどこまでが社会的負担が許されるのか?
介護とか医療にはそういう問題がある。姉は確かに胃ろうになったがそれも半年くらいであり死んだ,胃ろうでは3年とか生きている人もいるしもっと生きている人がいるからだだから人によって負担が違ってくるのである。
だから胃ろうもいちがいにすべて悪いともならないというのがむずかしいのである。
要するに個々人で家族で事情が違ってくることが問題なのである。
それを社会では考慮しえないのである。
80才でみんな安楽死した方がいいというとき個々人ではまだまだ仕事をしている人もいるしいちがいには言えない,90でもそうである。
そういうふうに社会ではしたいとしても個々人の事情を無視すると困るのである。

障害者でも社会的には無用でも家族にとってみればそうでない場合がある,それは老人の介護と同じである。介護になると障害者とにてくるのである。
ただ自分でもそうして障害者に払われる労力とコストは大変なものだと思う
例えば何か家族でそんなことを負担させられて若い人がやりたいこともやれないとしたら悲劇であり障害者を老人をうらむともなる
自分の場合はそういうことはなかった,特別良くしてもらったしやりたいことをやらせてもらったからだ,だからこそ自分は最期は恩返しできてつくづく良かったなと思ったのである。苦しかったけど良かったなと思っている
そして加護された家族もそれを納得してもらったから救われたとなったのである。
認知症でも正気にもどったりしていたからである。
ただこれから自分がどうなるかわからない,体も弱っているからどのように死んでゆくのか不安になる,なるべく社会の負担にならないように死んでゆきたいとなる
いづれにしろもう一人暮らしだとそうならざるをえなくなる,社会は非情だからそうさせられるのである。それもカルマでありやむをえないとなってしまうのである。
タグ:介護の負担
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