2008年08月17日

秋の蝉


雨しとと看護長引く秋の蝉


急に雨がふり涼しくなった。最近こんなに今頃涼しくなったか?二枚着ないと寒い。急に秋が来たという感じだ。涼しいという感じではない、寒いとも感じる。今年の天気も変だ。普通の夏だとまだ晩夏であり夏である。残暑でもあり夏である。こんなに早く夏は終わらない、特に最近暑いからそうである。でもこんなに涼しくなったのだから蝉がしとと雨降るなかに鳴いていたから秋の蝉になる。まだ秋の蝉には早い、蝉はもっと鳴いてから少なくなった蝉の声が秋の蝉だろう。
 
看護と介護は違う、看護は病気の治療が主になる感じだが看護と介護はだぶっている。今は病気の治療だから看護になるのだろう。介護となると長いのが介護になる。脳卒中などでは5年くらい介護状態がつづくのが普通だから大変である。今K子は何の反応もない、調べてみてもあと一週間死ぬ状態とかにあてはまる。昏睡状態だし目に反応がないし手足も微動だにしない、どうみても死の状態に近い、息は自分でしていても実際反応がないのだから死んでいるようにしか見えないのである。尿毒症で死ぬとはどういうことなのかよくわからない、体が腫れたり意識もなくなり昏睡状態になり息も苦しくなる。そういう状態から死にいたるのかわからない、肺炎に三回もなったから肺炎で死ぬのかと思っていたからだ。
 
ともかく暦の上では秋になった。看護も半年以上である。これもやはり長くなった。介護となるとさらに長いが病院の生活が半年以上というのも長いと思った。今はみんな病院で死ぬ。それで病院が大事になり世話してくれる看護婦さんが大事になる。それで最後病院で死ぬ時、看護婦さんに手を合わせて感謝して死んでいった女性がいたという。そういう人もふえてくるかもしれない、なぜなら家ではこれだけ世話できないし家で死ぬ人は恵まれた人だからだ。そこで最後を看取るのは場所は病院であり世話するのは看護婦さんだとなるからだ。タ−ミナルケアは病院であり看護婦さんが最後を看取ることが多くなるからだ。だから看護婦さんが身内よりも感謝される人となることもふえてくる。これだけ感謝されるとなると仕事としては辛くても生きがいあるものとなる。現代は死の場所がタ−ミナルケアが病院になるのが多くなるからただ治療だけではないタ−ミナルケアとしての用意が病院に必要となるがそこまで用意している病院は少ない、病院は介護施設とも違う、治療する場だしそこに人間の最後をケアする場ではないからだ。病院に三か月しかいられず病院を転々とするのも悲惨である。K子はそれが原因で死を早めたかもしれない、転院してから無理なことをしたために治療の継続がうまく受け継がれなかったために失敗したために悪くなったかもしれない、ただそれは今の病院の責任とはいえない。ともかく人間の最後は長引くようなったことは確かである。それはいい面と悪い面をもたらしている。延命治療で金がかかるとか主に金銭的な問題である。療養型病院のベッド数を半分に減らすというのもそのためなのだ。これで一兆円減らせるというからその負担が大きくなりすぎたのだ。
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