他人の仕事を認めない現代
(その対立が深刻になる)
暑き日に線路補修するJRの人を見てをり無人駅に
今日は仙建工業が小屋のようなもの建てるために工事していた
この会社は鉄道関係で仕事をしているのでしっている
JRの人も原町駅から二人来て草むしったりしていた
何か鉄道は保守管理の仕事がある。それが手間なのである
道案内としてはコモドイン小池のホテルに泊まる人が来たので案内した
歩いて行きたいといったが無理だとタクシーを教えた
駅前の看板の地図を見てもどれくらいの距離がわからない,時間がどのくらいかかるかわからない,そういうことは知らない土地に来ればそうなる
人間は毎日働いているけどその働くことをその価値を認めていない
今まで電車の旅をあきるくらいしたけどそこで働く人のことを考えたこともなかった
そこに人が働いているとすら思っていない,何か自動的電車が来て乗っている感じだった現代はいろいろな場で働いているけどその働いている姿が見えないのである。
また機械化自動化すれば余計に機械が働いていて人間が働いているのが見えないのである
だから日本では働く(はたらく)は端(はた)を楽にする意味があるというとき働く人を身近に家族でも見ているときそういう気持ちになったのである。
今は子供でもお父さんが会社で毎日働いていてもその姿が見えない
すると親の後ろ姿を見て子供が育つとはならないのである。
もし農家だったりすると暑いとき汗を流して働くのは楽じゃないなと子供ながらにみる,でも会社だとその姿は見えないのである。
そしてこれだけ多様な複雑な社会になると他人が働いていることがわからない
小さな町でもわからない,隣すら何して働いているのかわからないのである。
そこで何が起きてくるのか?他人が働いていることの価値を認めないということ知らないということになる
それで駅前の葬儀屋といつもあうが暇で余裕で毎日駅にきて楽だなとかのことを皮肉的に言った,その人は全く駅で自分がボランティアしていてもその価値を全く認めていない
なんだ毎日駅にきて何しているの?暇な奴がきて駅で時間を過ごしているとしか感じていないのである。
そういう面があるにしてもなにかしら役にたっている面もあるがそれを全く認めていない
そういうことは別に今の社会では普通にあり多いのである。何をしているのか仕事をしているのかわからなければ価値を認めるも何もないからである。
家の修理で屋根に上ったりするけどそれは危険なことがわかる
だからその時はその仕事の価値は高くなり一時間で一万五千要求されたがしかたがないと思った,それは目に見えてわかる仕事だからそうなる
ともかく今の社会は他人の仕事がわからないし価値を認めないのである。
車社会になったとき電車の乗り方も知らない人が多い,そういう人は全く鉄道の価値を認めないのである。鉄道など必要ないと思っているのだからそうなる
そこにすでに対立が生れる,自分でも葬儀に関しては30万でしたから必要にしてもそれがさほど重要な仕事に思えないのである。
相手も自分のことを認めなかった,自分でも葬儀などは簡単にしてやればいいと思うだけであり必要でもその価値をあまり認めないのである。
こういうことは今の社会では本当に多い,趣味で農業している女性でもそうである。
自分が駅でボランティアしていてもその価値を全く認めない,自分から見るとほとんど何を収穫している畑でただ愚痴を聞くだけのものが価値が高いとは思えないのである。
そこに種代とかいろいろ自分で払った,でももらったものはほんのわずかであり何もないと同じだからである。
するとそんなことしていて何の価値があるのか?自分は確かに価値を認めていてもその人が自分のしていることをしなくていいとか言えるのか?
ここにも自分のしていることは価値があり他人のしていることは価値がないとしているのである。
こうしてもし一緒に暮らすとなると価値観の対立が深刻になり一緒に暮らせなくなる
そういうことは自分の家族であった。花とかが無駄だとか庭は無駄だとかいう人と一緒に暮らせるのか?それが例え親でもである
これだけ多様な複雑な社会になるとそういうことが多すぎるのである。
要するに一つの絵にしろ価値を認めないものには何の価値もない,芸術となるとそうである。ただ芸術がわからない人でも一枚の絵が何億だと値がつくと価値あるものとして認めるのである。それが資本主義社会である。
現代の社会は価値観の対立が起こりやすい社会なのである。もちろんグローバル化社会になると世界的にもそうなる
価値観の対立は仕事でもあなたの仕事は価値がないいらないということになればその存在の全否定になる,それが深刻になるのである。
現代は価値が多様であり複雑になりすぎてもうそれぞれの仕事とか価値をしりえない社会になっているのだ。
葬儀屋とかは失礼になるが昔なら棺桶屋にもなるだろう。人間が死ねば商売になる仕事である。自分がそんなこということ自体相手の価値を否定しているのである。
大人でも若者がゲームしているのは無駄だとかなったり世代間の価値の対立もある
どこでも価値の対立が起きやすい社会なのである。
自分が車の価値を認めず鉄道の価値を認める,でも現実は車社会であり車に関係する仕事している人が多いのである。だから車がいらないとなれば車関係で膨大に仕事している人もいらないとなり価値が否定されるのである。
自分は車がいらないとかは言っていない,車の恩恵を間接的に通販でもなんでも受けているからだ,車をへらせということを言っているのである。
荷物を運ぶのには必要でもこんなに車が必要なのかという疑問なのである。
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