オリンピックに興味がもてない原因(2)
●女子のレスリング、重量挙げに違和感
オリンピックを見ていて違和感を感じたのは男性的な競技に女性が進出して男性のスポ−ツで女性のしないものはないようになった。これも男女平等、フェミニズムの影響なのだろう。これは日本でも同じであり女性の方が五輪参加者がアテネでは多かった。東京オリンピックですら10パ−セントくらいしか女性は参加していない、重量挙げに女性がしていたのも驚きだった。レスリングも最近女性が進出してきた。柔道も女性が進出してきた。男性のすることは女性もさせるべきだというフェミニズムの主張が通っているし男性だけのスポ−ツはアメリカの大学では廃止されている。女性が参加できないもの男性だけでしてはいけないとなった。これは教育でも男女共学になりそこからスポ−ツも平等になったのである。でも女性が筋骨隆々とした男子と同じ競技に挑むのに違和感を感じた。女性ににつかわしくないと見えたからだ。それは女性差別となるから否定される。でも別にソフトボ−ルとか他にマラソンでも違和感は感じないのである。全部が違和感を感じるわけではない、マラソンも女子のマラソンができたのはまだ日が浅いのだ。マラソンは耐久力の勝負だから女性にあっていたし女子のマラソンは男子と同じく見応えがある。ただ常に新奇なものには違和感がつきものだからいちがいに女性が男性のすることに参加することは悪いとは言えない、でも女性にふさわしいスポ−ツがありそれは見ていても違和感を感じない、それは何が基準になっているか明確ではないことは確かである。レスリングとか重量挙げとか柔道などはやはり筋肉主体の運動だからそう見える。スポ−ツは一般的に筋肉主体だから男性的なものとして女性の参画をはばんできた歴史があった。その違和感はそうした歴史とも関係している。でも違和感をぬぐいきれないのである。すべてではないがやはり一部は女性ににつかわしくないと見えるのだ。ボデイビルの女性にしても筋肉美を誇示することに違和感があるとにている。それは見方によって違うからそれぞれの価値観なのかもしれない、私の場合そう見えたというだけである。今や価値観は多様であるからその価値観を否定できないことも確かなのである。女性の筋肉美を称賛する人がいてもいいし否定する人もいていいのだ。私の場合は否定的だったということである。
●世界中の人が集まっても興味はもてない
今回の北京オリンピックでは「オリンピック 飽きた」とかのキ-ワ-ドできている人が結構いた。何かオリンピック自体曲がり角にきているのだ。今までは世界中の人が集うということ自体に意味があったのだ。世界の人がみな集まるお祭りということだけで意味があったのだ。なかなかそういう機会が世界でなかったからである。今では世界中の人が集まるの交通の発達などでめずらしくなくなった。バックパッカ−の宿にいけば世界中の人が集まっているし若者もそういう経験を日常的にしているのだ。そして世界中の人が集まることは若者の間では珍しくなく日常的に行われているのだ。留学自体普通のことであり別に特別優秀な人が行くじだいでもなくなったことでもわかる。そういう時代に世界中の人が集まるだけでは珍しくもないし特別なことでもなくなったのだ。
「オリンピック 飽きた」オリンピックがつまらないというのも時代を反映しているのだ。オリンピック競技になってかえってその国のもっている文化であったものがそこなわれてしまったのもオリンピックが勝負にこだわりすぎる、メダルにこだわりすぎることでかえってスポ−ツが求めるものと乖離してくる。柔道なども勝負にこだわりすぎて本来の日本的文化としての柔道は失われた。レスリングとどこが違うのだと言う人もいて日本文化としての柔道は失われた。勝負にこだわりすぎるからそうなるのだ。
●オリンピック国の代表から個々の能力の追求へ
オリンピックの将来像はどうなるのだろうか?オリンピック自体国威高揚が国の代表としてメダルをとることが目的とされきた。今もそうである。でもこれからは国の代表というより純粋にそのスポ−ツを楽しみ追求するものになる。オリンピックは今や競技の種類が多いこともそれぞれがマニアック化して一部のその競技にかかわる人しか興味がもてないのである。オリンピックは競技種目が多すぎてかえって興味がもてなくなっているのだ。オリンピックもやはり国威高揚主義でなくなりただ国の代表ではない、人間の個人のグル−プの能力を純粋に追求するものとなる。別に国の代表ではない、個々の人間の能力の追求となる。身体能力を競うとなるとかえって国の代表というよりそうなりやすいのである。ところが文化となるとそうはいかない、アジアでは西洋の音楽は理解できないとか言われるのも文化だからである。文化はやはり歴史と国土とか深いル−ツをもつからである。スポ−ツでも文化の側面があるから柔道などは日本的文化として追求するものがあるから勝負だけにこだわるのは文化の喪失になる。俳句も国際化でとないのは日本の純粋の文化になっているからだ。文化は簡単に国際化できないのである。スポ−ツはかえって国際化しやすい面はあった。純粋に身体能力を競うものだからである。オリンピックには国威高揚主義がなくなりそれぞれの競技を個々に追求するものになる。オリンピックがつまらないというときあらゆる種目がありそれら全部に興味をもっている人がいないからである。インタ−ネットでもニッチなもマイナ−なものが集まり興味が分散ししているようにオリンピックにも同じ傾向が生れてきている。これもやはり時代なのだろう。東京オリンピック時代とはあまりにも環境が変わりすぎたのである。
より高度なスキルや美的観点、知的な思考や判断を中心にするもの、また、競争から協調、他と競うことから内観的なものへと発展する可能性もある。
ジェンダー学と生物学の対話
http://www.h4.dion.ne.jp/~jssf/text/doukousp/pdf/200611/0611_4651.pdf
美的観点から言えばレスリングとか重量挙げとかは女性にそぐわない、知的な思考や判断というのも筋肉主体のスポ−ツの否定につながる。他と競うことから内観的なも・・・これは柔道とか武道の精神に通じている。武道を通じて悟りの境地を追求する、そこ手は勝負ではない、精神的なものが重要視されるのである。東洋的武道−スポ−ツはそういうものだった。やはりオリンピックは曲がり角にきている。今までと同じやり方では世界の人の関心も集められなくなってきているのだ。
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