2017年07月31日

ボランティアにも動機がいる (介護でも犯罪でも動機が必要)


ボランティアにも動機がいる

(介護でも犯罪でも動機が必要)


仙台の松島の人が今回の九州の水害にあった所にボランティアに行っていた,そんな遠くまで行ったのかとなるがこの辺でも福岡市から来た人がいた
交通費だけでも大変だろうなと思っているがそれはどうなっているのかわからない
その人が言うには津浪で世話になったから恩返しだという
それが動機になっていることが災害の時など多くなった
もちろんこうした動機がなくてもボランティアしている人はいる
でもそうした明確な動機があるときボランティアも報酬無くてもできる

何か人間は動機がモチベーションが何するにも必要なのである。
働くにしてもそうである。ただ金をもらいたいというだけで働いているのはまさに奴隷なのである。何かしら動機があって働く意欲が生れる,その時人間は本当に働いているとなる
そういうことは介護では本当に動機がないとできない,肉親でもなんても介護は辛いから動機がないとできないものだろう。
自分がやれたのは動機があったからである。一番自分は親であれ家族に良くされたのである。だから恩返しだったから必死にした,介護のとき兄弟でもお前は一番かわいがられたからお前が介護しろとか言われる,それもそうだと思った
兄弟でも動機がないとできないからである。
遺産目当てが動機となるだけではなかなか介護もできない

動機というとき推理ドラマでは常に動機が重要なものとして追及している,人を殺すくらいだと恨みだとか何か強烈な動機があるはずだとなる,だからまず動機をさぐる
関係者を探して動機を探るのである。犯罪でも動機があって成り立つとなるから動機を探す

ボランティアは自由意志でするから報酬もない無償の労働だというとき動機がないとなかなかやれないだろう。水害の後片付けなど結構重労働になるからボランティアでも辛いとなるからだ,何のためにしているのかとなるからだ

ではなぜ自分が無人駅のボランティアをしているのか?
それはたいしたことではないし誰も別に自分が働いているとも認めていない
ではなぜそんなことをしているのだろうか?
暇だから生きがいを求めてというのもボランティアにある,それが60代以上が多いことでもわかる,生きがいを求めてするとういのも動機なのである。

自分の場合は鉄道旅行が長い,すると今になると鉄道会社には世話になったということを思うようになった,すると鉄道会社に対しての恩返しなのかと思うようになった
もう一つは駅は鉄道とだけ関係しているわけではない
その街とも関係している,そこに住む人々とも関係しているのである。
だから地元の人のためにするということが動機になる,地元に生きるならなにかしら世話になるから働くという動機になる
自分が駅でたいしたことでなくてもボランティアしていることは動機があった

要するになにかしら動機がないとボランティアもやれない,つづかない
ボランティアをしても報酬がないからそうなる,余計に報酬のある労働より動機が大事になる,趣味の畑をしている女性もボランティアである。
毎日嫌だ嫌だと言っているけど農業が好きだから自由意志でしているのである。
金銭的には損失になっているからそれはボランティアなのである。
でも農業が好きだからこそしている,それでとても生活の足しになるわけでもないからだ野菜でも何でも買っているからだ

いづれにしろ人間が60とかまで生きればなんらか世の中に世話になったことを自覚する
一番自覚するのは親には世話になったということを自覚する
それは人によりけりだか一般的にはそうなる,恩を感じるのである。
その恩は実は死んでからも感じる,意外と死んでからそういうことをその人のありがたみを感じる,その人がいるときはそういうことを感じないのである。
だから妻でも死んだときそういうことを感じる夫が多いのである。
それでいつまでも何回忌だとか毎日仏壇に祈っている男性がいる
それはやはり妻をなくしたショックがあり妻のありがたみを知ったからである。
それは宗教でも信仰でもないがそうなるのは死んではじめて妻のありがたみを知ったからである。

自分の場合もそうだった,60年間食事でもなんでもしてくれる人がいて自分はなにもしなかったのである。これほど恵まれたことはなかった
それが一転して介護となり自分が今度は世話する番になった
そして毎日今でも台所にたち料理して自分のことは一切自分でしなければならなくなったそのことは悲しいことであり自分を世話してくれた親に感謝したのである。
死んでからもその感謝の念が強まっているのも不思議である。
人間は死んでもやはりすぐに忘れるわけではない,自分を愛してくれた世話してくれた人のことは忘れない,かえって強まってくることがあるのだ

痛切に思ったことは自分のことを思う人が一人もいなくなったことである。
自分を思うとしても他人は金しかないのである。
それは本当に悲しいことである。皿二三枚あらうことさえ他人はしない,そのためになぜこんなに金を払わねばならないのか
と今も思う,人は他人を思うときもう金しかないのである
ただ今になるとそれも自業自得だったとなる
そういう非情を十年間経験したことで親のことをさらに思うようになったのである。 

ただ親を供養する気がない人もいる,それはあまりにも親のために苦しんだためである
それは親子でも恨みしかなくなっていたのである。
だから別に親子で恩を感じるとかみんなならないのである。
親でもよほどのことをしないかぎり感謝するとか恩を感じることはないかもしれない
自分の場合は特殊な事情で親に恩を感じて死んでも供養しているのである。
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