夕空に高く交わる夏つばめ
満面に笑みをたたえて夏の月
山々にひびきわたるや盆の歌
舘岩に入りゆく山路清水かな我が喉うるおし影を置くかな
庭のソファ−で今日も食事の後寝そべって空を見ていた。そしたら高く高く燕が交わり飛んでいた。今日はひさしぶりにようやく晴れて夏らしかった。その空が広く気持ちよかった。ずっと曇っていたから特に夏らしく感じた。やはり夏は夏らしいのがいい、あまり暑すぎても困るがずっと曇っていたから夏らしくなかったのだ。空は空を見ているだけで気持ちいいことがわかった。その広さ、空間が気持ちいいのである。日本では空がない、空の広さと川の大きさと平原の広さがないのだ。山国だから山にさえぎられてそうなる。なにもさえぎるものがなく広がる空間は心を気持ちよく広かな気分にする。なぜなら人間社会は狭い空間に閉ざされてひしめきあい生活しているからだ。それで何もない大空を見てつばめが飛んでいるのが本当に痛快だった。鳥と大空は一体となっていることをつくづく感じた。空にさえぎるものがなく境になるものもない、解放された空間だった。海もまた空と同じくさえぎるものもなくどこまでも広がっているのだ。
夏の月のように満面の笑みをたたえた女性も今や瀕死の状態であり何の反応もない植物人間化した。意識がなくなっているのだ。昏睡状態になっている。人間はあれなら死んだ方がいいような気がする。前のように意識がもどるようには思えないからだ。空に舞い空に飛び空に消えるのが生きるものの理想である。人間の死にざまは今や無惨である。
盆踊りの歌が囲む山々にひびきわたっていた。それは舘岩村に泊まった時だった。舘岩村も山々に囲まれた秘境の感じがする村である。どこからも山に囲まれていてこんなところに村があるのかという所である。こういう村は山国だったらめずらしくないが会津だと山が高いし奥深い余計そうなるのだ。だから盆踊りの歌も本当に山々にひびきわたるのだ。お盆の時山も人々が帰りにぎわうときである。村はもともと過疎ではなくにぎわっていたのだ。その舘岩村に入ってゆく峠道に清水がありそこで喉をうるおした。弘法清水とかでありふれた名前であるが昔から安た清水の出る場所だった。そこに自分の影も置いてきた。とにかく日本の地形は山が多く複雑である。迷路のようになっている。会津とか栃木になるとまた山が多く深いから地理がわかりにくいのだ。隠れ里とか秘境は日本ではめずらしくないしそういう複雑な地形のためにそういう場所が多いのである。
http://musubu.sblo.jp/article/18020064.html